これ以来、僕は急にすべてに対して意欲がなくなり、抜けの状態になった。なぜか当たり前の日常生活に戻れなくなっていた。

夏休みも終わろうとしていたのに、怠惰な日々を過ごしていた。大塚家に出入りするようになってまだ、五、六ヵ月足らずだったのに。

彼女の存在がいつしか大きくなっていたことに、僕はまったく気づいていなかった。僕の心には、いまはただ空虚な世界が広がるばかりだった。何気ない彩さんとの触れ合いや会話がいまとなっては懐かしい。

彼女の存在が僕の人生に対して、こんなに深く影響しているなんてまったく想像していなかった。僕は、意欲を消失した夢遊病者のようだった。

季節は、いつしか秋の気配を漂わせ始めていた。晩夏の隙間すきまに秋が忍び込んでいた。自然は秋のよそおいを草木や風のなかに紛れ込ませていた。朝晩は、耳を澄ませばこおろぎなどの虫のが聞こえるような時候になっていた。

彼女たちが去ってから、傷心の僕は、バイトや大学の授業も休みがちになった。そんな僕を見て、家族も友人も僕を心配し始めていた。

自然の移ろいのなかで、自分だけが置いてけぼりにされているのか。孤独な狭い空間に、閉じ込められているような気がした。

あれ以来、彩さんからは何の音沙汰もなく、もちろんLINEも手紙もなかった。どうしたのか。何か事故でもあったのか。何か事件に巻き込まれたのか。僕は盛んに余計な心配を重ねた。

時おり電気屋の森田さんから、断片的に彩さんや夫人の現況を風の便りに耳にする程度だった。だから二人の生活の有りていを細かく把握するのは困難だった。

もうすっかり夏がえて、秋の気配がだいぶ深まったある日、一通のカラフルな手紙が届いた。彩さんからだった。僕はわらをも掴む気持ちで、すぐに手紙を読んだ。

月の光を浴びて、愛する人の恋文こいぶみを切なく読みふける昔の人のような気持ちだった。

『元気にしてる? 手紙、遅れてごめん! ママが体調を崩して入院したり、いろいろあったんだ。シドニーは、そちらとは違って春だよ。でも、まだ寒いよ。地球って広いんだね。

もう語学勉強は始まってるんだ。ウチの通うシドニーの語学学校には日本からも何人かの留学生がいて、大阪出身の女生徒と仲良くなったよ。ウチとすごく家庭環境が似てたから。

それはそうと、夏休み中にあんたから英語の特訓を受けといて良かった!! その勉強がけっこう役に立ってる。授業は毎日英語で受けてるんだ。日本語はママとだけしか使わないから、忘れちゃいそう(笑)。

ときどき、いや毎日かな、あんたのこと思い出すよ! あんたからいろんなこと教わったけど、ウチ、バカだから全部忘れちゃった!相変わらず、ウチって駄目だな。ほんとバカな女だと思う。

でもね…あんたのことは忘れないよ。ママもよろしくって言ってた。あんた、優しかったから。

やっぱ優しい気持ちや心って大切だね!! それだけは忘れないよ! ウチの大好きな優しい先生!』

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『心の闇に灯りを点せ~不思議な少女の物語~』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。