優輝と慶三

「ただいまー」

いつものように無邪気な声で喫茶店の扉を開け、牧森優輝は快活に帰宅した。居宅の玄関からではなく、まず喫茶店に入って、店内奥の通用口から自宅に帰るのが優輝の道順である。

「よう、お帰り」

「お帰り、優輝」

カウンターに陣取る常連客が相次いで迎えてくれた。これも変わらない光景である。このふたりは優輝の祖父、つまり未代の父親である慶三の古い友達だ。

奥に座っているのが木村一隆で、手前が原田吉次。午後に来る予定の谷山志朗とあわせた四人は高校の同級生。麻雀仲間でもある。ただし慶三が没してからは、代役を入れることも三人打ちに変えることもせず、一切卓を囲んでいなかった。

「すみません。支度終わりましたー」

奥の扉から、せかせかとエプロン姿の未代が現れた。

「いいってことよ。特に変わったことなしだ」

木村は店内を振り返ることなく答えた。テーブル席では、近所の主婦がふたり向き合って珈琲を飲んでいる。いや正確には、珈琲を飲み終えた後の水を飲んでいる。彼女たちは、週いちレベルの常連だ。木村たちより、少し下の世代である。

「ここ、なんかついてるよ」

原田が自分の鼻を指で突きながら言った。木村と同じような、太くて力感のある指だ。

ずんぐりとした体形は標準を横に大きく超えており、そのまま上に伸ばすと木村の巨大なシルエットが出来上がる。

え、と鼻に触れた未代は、マヨネーズだ、と苦笑いで説明してエプロンで拭き取った。

このランチタイム前の時間帯は、幼稚園から帰ってくる優輝の昼ご飯を用意する未代に代わって、いつも父の旧友たちが店番をしてくれるのだった。

「優輝。今日はどうだった? 何か変わったことは?」

「うーん。ふつう、かな」

優輝は至って簡単な返事を未代に返すと、お腹すいた、と言い残して奥へ消えた。

「未代ちゃん。お水くれる?」

「はーい、ただいま」

「水ぐらい、自分で入れろよ。忙しいのわかってんだろ」

木村は、ちらっと顔を主婦たちのほうに向けて言い放った。

「うるさいね。まだ忙しくなる前だよ。忙しい時にそんなこと言うもんか。ねえ未代ちゃん」

「いつもお気遣いありがとうございます」

未代は見るからに饒舌な野々瀬明世と物静かな和泉多喜子に、感謝を込めて水を注ぎ足した。

「そろそろ、昼時の客が来る頃だ。お前らが居たら座れねえだろうが。お代わりしないならさっさと帰れ」

「やかましいわ。客が来る前に言われなくても帰るわさ。それよりあんたたちこそ、いつもそこに居て邪魔なんだけどね」

明世は木村に負けじと言い返した。

「なにぬかしやがる。知ってんだろ? 俺たちはここで毎日、大事な役目を果たしてんだ。なあ」

「そのとおりだ。これは俺たちにしかできねえ役目だからな」

隣で原田がもっともらしく続けた。未代は誇らしげに頷くふたりに、感謝とためらいの混ざった複雑な笑みを返した。

谷山も含めた木村たちの言う役割とは、未代に悪い虫がつかないように、毎日交代で客を監視することだった。今月のローテーションとして、最初に開店間もなく現れるのは木村だ。そしてモーニングセットを食べたあとは、原田が来るのを待つ。引継ぎを終えた原田は、ランチを食べて谷山を待つ。最後に残った谷山は、ミルクティーで閉店まで時間をつなぎながら、今日も平穏に終わったことをふたりに報告して店を出る。

この営みは、月ごとに順番を変えながら、優輝の誕生後ずっと繰り返されていた。父の盟友が毎日ここまでしてくれるのは、園井のことを悪く思っている訳ではなくて、私を未婚の母にしてしまったという負い目を感じているからである。俺たちがついていながら慶三に申し訳ないという責任感から、連携を密にして監視を強化しているのだった。ただこれには、同級生たちが年齢を重ねるにつれて、互いの近況や体調を確認しあえるという意味合いも含まれているらしいのだが。

身寄りがなくなり、ひとりで生きていくことになった私を、友達のひとり娘だからという理由でこんなに見守ってくれるのは、そしてそれが今も続いているのは、世間では珍しいことだろう。口は悪いけれど、そんな優しい人たちに私は支えられている。

おじさんたちが店番をしてくれるから、優輝の昼食も作れるし、ちょっとした用事で外に出ることもできる。忙しい時はウエイターまでやってくれるおじさんたちには、本当に感謝しているのだ。全くの他人なのに、親代わりとして親切にしてもらって、本当に嬉しく思っいる。

ただ必要以上に男性客を分析して警戒することには、正直なところ、少し有難迷惑に感じているのだった。私だってもう二十八なんだし、そこまで干渉されなくても、という自負はある。園井と付き合い、優輝を産んだことだって、私の中では十分納得しての結果なのだ。昭和の古き名残を大切にする父親世代には、それが潔しとは映らないようだが。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『小節は6月から始まる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。