社宅となっていたのは歌舞伎役者の初代猿翁が二代目市川猿之助だった時代の旧宅を会社が社宅として買い取ったもののようで、激しい東京空襲でも焼けずに残っていたのだ。敷地の広さと、建物や調度、庭の造りなどの高級感が、戦後の近隣の家々をはるかにしのいでいて、自宅ではないのに友達に羨ましがられた。

家の隣は小さな旅館で、水を打った、こぎれいな入口から、大きなお相撲さんや、芸者さんらしい着物を着たきれいな人などが時々出入りしているのを見た。とても珍しい光景だった。

自宅は築地の卸売市場の近くだったので、同級生は父親が築地市場で働いている家庭の子供が多く、威勢が良かった。小学校は聖路加国際病院の隣の明石小学校だった。

初登校の日、今まで学校の運動場と言えば赤土だったのだが、運動場が土ではなく、アスファルトの様なもので固められているのを見て驚いた。

運動会では父兄の競技もあって、固められた小さなトラックを父兄が真剣に走った。

あまりに小さなトラックなので、直線部分はなく、ほとんどが曲線だった。足がもつれて転んでしまい、眼鏡が割れて顔に怪我をした友達の母親を見たことがある。東京は狭いところだと感じた。

小学校を卒業するまで、その運動場から隣の聖路加国際病院の高い塔とその上にある十字架を見上げて過ごした。

東京に転居して一番心に残っているのは関西との言葉の相違だ。あの頃はまだ白黒テレビもできたばかりで、普及していなかったので、関西弁の認知度が低く、友達と話をするたびに、

「言葉がおかしい」

「田舎っぺ」

と笑われた。

子供は残酷で、批判も痛烈だったので、一刻も早く標準語を覚えようと、子供ながらに努力した覚えがある。友達の真似をして、語尾に『ちゃった』をつける言葉を連発し、『行っちゃった』『食べちゃった』と言っては、今度は家族に笑われた。

家に帰れば気を許して関西弁で話し、一歩外に出れば緊張して標準語で話そうとする悩ましい時期だった。

自分がまだ小学生のこの頃、休日には、友達と遊ぶより、自宅で父と向かい合って、互いの似顔絵を描いたり、木彫りや粘土でお面を作ったりと、父との関わりが多かった。時には晩酌する父のそばにくっついて、おつまみをもらって、楽しくおしゃべりした記憶がある。

父は、この頃、多忙を極め、ストレスの多い生活の中にあって、休みの日は、少しゆとりを求めているのだと感じたが、男の子に厳しい父を、兄や弟は煙たがっていたので、娘だけが話し相手だったのかもしれない。

その後、明石小学校の隣の文海中学校に進学したが、二年に進級する際に父の仕事の関係で又関西に転居することとなった。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。