北京に行った時に、観光地から出てバスに乗ろうと歩いていると、まだ学校にも行っていないような小さな女の子が、一輪の花を買ってくれとせがんできた。可哀そうだなと思ったし、可愛かったので買ってあげた。

バスに乗り込むと、ガイドの人から「あの子たちからモノを買わないでください。あの子たちは背後に親や胴元がいて、その人たちにやらされているのです。貧乏でも何でもないんです。わざとみすぼらしい恰好をさせて、旅行者から稼ごうとしているのです。北京の街から彼らを一掃しようと、国をあげて頑張っているのですから、是非協力してください」と言われた。

北京オリンピックが近づいてきた時期というのもあったのだろう。

ネパールのカトマンズで観光していた時には、赤ん坊を抱いた母親らしき人がバクシーシをしてきた。可哀そうだなと一瞬思ったが、無視して歩いた。女の人を振り切ってから、少しして後ろを振り返ると、バスの陰でその女の人にお金を渡している現地のガイドさんが見えた。ああ……少し心が痛んだ。

ツアー旅行で妻とカンボジアに行った時は、オプショナルツアーに、現地の小学校に文房具をプレゼントしながら授業風景を参観したり、田舎に井戸を掘って寄付するツアーがあった。

プノンペンから車で1時間もかからない距離なのに、もう電機も水道も通っていないところがある。現地に寄付した井戸を見に行くと、井戸のそば「Mr.&Mrs. Shima’s well」(島夫妻の井戸)と書いた看板が立っていた。

井戸のそばの民家に住む女性に話を聞くと、それまでは隣町の井戸まで、毎日数キロ歩いて水を汲みに行っていたそうで、とても助かっていると感謝された。こういうツアーがもっとあったらいいなと思うのだが、今はほとんど聞かない。帰りに彼女たちから、自分たちが竹で編んだ籠を買ってほしいとせがまれたが、大きいし荷物にもなるので、「いらない、いらない」と断った。そのあとガイドさんが買っていた。

「ああー、またやってしまった!」

「施し」ひとつでも難しいものだと思った。その国の文化や事情がよくわかっていないとうまくできないものだと思った。でも旅行者なのだから、よくわからなくてもしょうがない。

自分の気持ちに素直に従ってやるしかない。それで少し嬉しい気持ちになったり、失敗をして落ち込んだりしながら、少しずつ感じて、学んでいくものだと思う。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『窓ガラスが鏡に変わるとき-文庫版-』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。