昭和33年にはフラフープが大流行しましたが、体(腸ねん転)に悪いといわれブームも短期間に過ぎ去りました。しばらくすると空気で膨らませたビニール製のダッコちゃん人形を女性が腕に絡ませて道を闊歩かっぽしました。

その頃を振り返ると陰湿な虐めや塾通いもなく、先生とも親密でアットホームな関係でした。

仲間と先生宅に幾度となく訪問したのが思い出です。

小学校時代はあちらこちらに戦後の貧しい暗い影がまだ残る日本でした。

中学校は大阪市内中心部の京阪電鉄天満橋てんまばし駅近くの1クラスが60数名で1学年15クラス前後の超マンモス校でした。猫の額ぐらいのコンクリートの校庭があり、上町台地にある4階の校舎の窓から見る大阪の空は、工場からの排煙と車の排気ガスによるスモッグで昼間から蛍光灯が必要なぐらいの薄暗闇で、その風景は近年の中国の工業都市とまったく同じです。

その中学校は有名進学校で越境入学生も多く、卒業しても地元出身者が少ないのでクラス同窓会もありません。京阪電車の終点は天満橋駅で、市バスや市電のターミナルも隣接されていましたが、昭和38年には天満橋から淀屋橋よどやばしまで延長になり駅も地下に移動しました。

3年間の学校生活はほとんど記憶に残っていませんが、修学旅行は、国鉄の修学旅行専用車「きぼう」で箱根、江ノ島、東京方面でした。記憶の片隅に国会議事堂と浅草寺を見学したことだけが残っています。その後、通っていた中学校の校舎は取り崩され、移転したと風の便りに聞きました。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『未来なに彩』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。