正常と異常のわかれ目は?

依存症の対象はじつにさまざまです。大ざっぱな区分としては、「もの」「行為」「人」という3タイプに分けることができます。「もの」への依存とは物質を“体内に取り込むもの”で、覚せい剤、大麻、危険ドラッグ、アルコール(お酒)、ニコチン(たばこ)、カフェイン、スイーツ、などがあります。

【宝町+オンライン】税務に関して無料個別相談 >>>詳しくはコチラ

「行為」への依存とは“ある行為のプロセスのなかで得られる快感に執着する”もので、性(痴漢、盗撮、露出)、ギャンブル、ショッピング、食事(過食)、ダイエット(拒食)、自傷行為(リストカットなど)、仕事、カルト宗教、ネット(SNS、ゲーム、スマホ)、スポーツなどがあります。

「人」への依存とは“ある特定の人間関係に強く依存するもの”で、暴力(DV・虐待)、家族(ひきこもり)、セックス(恋愛)、女性、男性などがあります。

「コーヒーを毎日10杯以上飲むけど、病院に行ったほうがいいのかな?」

「えー!? ネットやゲームのやりすぎも依存症になっちゃうの⁉」

「スポーツの依存症なんて、逆に健康に良さそうだけど……」

「なんでもかんでも“依存症”って病気にしすぎじゃないの?」

と、思った人もいるかもしれません。

じつは、依存症であるかそうでないかのわかれ目は、ひじょうにあいまいです。こころの病とは、なにかを測定すれば数値にあらわれるものではありません。病気であるかどうかは“状態による”のです。

たとえば、私はお酒が大好きで、毎晩寝るまえに晩酌をします。もう何十年も続いている習慣で、いまさらやめろといわれても、そう簡単にはやめられないでしょう。おそらくお酒を飲まないと、うまく寝つくことができないかもしれません。そういう意味では、私も(軽度の)アルコール依存といえます。

けれども、それで大声をあげて家族や近所に迷惑をかけたり、朝起きられずに無断欠勤したり、職場で人目を盗んで飲んだりということはありません。日々問題なく、社会生活が送れています。もし、肝臓の機能などに障害が出れば内科を受診しますが、精神科での治療は必要はありません。

つまり、こころの病かそうでないかの最大のわかれ目は「社会生活が支障なく送れているか、いないか」にあります。もっといえば、学会などでその依存症が承認されているか、いないかも問題ではありません。こころの病はいつもそのときどき、時代時代の社会のスキマから生じます。

新型のうつが最初は「なまけぐせ」などとされたように、最初は見つけにくくほかの問題ととらえられがちです。ところが、学会ではそれなりの症例が確認されてから議論されますから、いつも後追いにならざるをえません。行政が対応するのは、それよりもさらに遅れます。

先ほど“”行為”への依存で「ネット(SNS、ゲーム、スマホ)」をあげました。ネットはいまや、生活になくてはならないものです。知りたいことがすぐにわかって、さまざまな人と連絡がついて、買いものができて、ゲームもできる。こんなに便利なものはありません。

その弊害として、朝昼夜の区別なく1日じゅうネットの世界に入り浸って、現実社会の人間関係がまともにできなくなってしまった人が増えています。つねにSNSで誰かとチャットをしていないと不安になるのに、目の前にいる生身の人間とはろくに会話が交わせない。相手の気持ちを察したり、自分の感情をじょうずに伝えることができなくなり、ちょっとしたことですぐにキレたり、ひきこもったりしてしまうのです。

これは世界的な傾向で、アメリカの精神医学界でも精神疾患の診断マニュアル「DSM」を改訂するさいに「インターネット・ゲーム障害」を「物質使用障害」の1つに加えるかどうかが議論されました(結局、現段階では「非物質関連障害」の候補としてあつかっています)。今後、ネットがさらに普及・進化していくことで、問題はさらに大きくなり議論は深まっていくでしょう。

ですが、実際にいまネット依存で社会生活が送れなくなっている人は、その議論を待っている余裕はありません。現場の精神科医はその疾患が医学書に書いてあるかにかかわらず、目の前の苦しんでいる人によりそって対処する必要があります。依存の対象は時代とともに変わり、拡大しているのです。

※本記事は、2017年10月刊行の書籍『ヒューマンファーストのこころの治療』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。