言葉は情報や意思を伝達するものだから、わかり易い方がいい。その意味では、ある程度の単純化、簡素化は許されていいかもしれないし、あながち悪い事とはいい切れない気もする。

ただ、人間の内面的なものを伝達する手段、方法としては「ら」抜き言葉はリズムや響きが悪いように感じられる。美しさに欠ける気がする。日頃無意識のうちに私も使ってしまう事があるかもしれない。

しかし、できれば私自身は、少なくとも自身の文章の中では使用を避けたい。関西弁は、角が取れて滑らかな耳触りである。

東海道新幹線からの景色は、意外と変化に富んでいてなかなかいいものである。ほとんど絶え間なく小雨が車窓に滴を流しており、富士山にもお目にかかれなかった。

それでも「こだま」に乗車した分、各地域の景色を堪能できた気がする。終わってみれば、本当に呆気ない日々ではあったが、また京都を訪ねられればと思う。

京都は、いい町である。

富士山や尾瀬には、日本を代表する自然景観として、日本人の心に何かを訴え、及ぼす姿や響きがある。そしてやはり京都にも、日本人の心に心地よく響く余韻がある。

京の都――長い歴史を刻み、風雅な文化を生み、残したこの町の名を耳にする時、日本人の心には優しささえこみ上げる。日本人にとって、これほど優しい町の名、響きが他にあるだろうか。

その意味では、日本人の心や文化の原点のひとつは京都にあり、日本人にとって最も美しく尊い町なのかもしれない。そして、京都にはA君が住み、私の心のどこか一部分は、そちらの方を向き、気にしている。

この7泊8日の旅は、確かに呆気なく、旅立つ前の想いからすれば、たった今浮かび上がってきた泡が、次の瞬間には消えてしまったようなものだ。

だが、その泡の中に封じこめられていたものは、私にとっては何にも替え難い旅の出来事、想い出であり、その泡のように簡単に消え去ってしまうものではない。

この先、5年、10年、20年経って、この京都の旅が私にとってどれほどの想い出であり、どんな意義を持つのか、何の確証もない。

それに、いずれまた訪れたい次の京都の旅では、今回以上に楽しく、充実した日々を過ごせるかもしれない。私にはそういう意欲さえあり、今すぐにでもでかけて行きたい。

JR東海のCMのように、思いついた時に、気軽にでかけられたら、どんなにかいいだろうかと思う。

秋の京都はとても美しかったし、自分の目や足で確かめたその町は、私の期待にたがわず、素晴らしい印象を与え残してくれた。

勿論、A家にお世話になったことは、何にも増してありがたいことだった。図々しくも、すっかりお世話になってしまった。そのことの裏返しで、本当に忘れ得ぬ旅であったことの証明かもしれない。

何もかもが嬉しく感じられ、訪れた甲斐があったとかみしめられる日々だった。その京都の旅は、もうすでに終わった。

それでも、このちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーは、今も私の中では続いている。

※これは当時書き残した文章に、添削を施したものです。