はじめのうちは日本はロシアを相手に満州から攻めてくるであろうとの期待感があって往来を歩いている日本人をみると好意の表情を浮かべるほどであったが、八月四日、イギリスがドイツに宣戦を布告し同国大使館員が引き揚げると、ドイツ人の態度は険悪になり「日本はイギリスに次いでドイツの敵になるのだろう、日本はなぜ中立しないのか」などと尋ねられる。

ことに子供達の敵愾心が強く「私は往来を歩いていて子供が石を投げやしまいかと心配でたまりませんでした」と環は語っている。八月十日ともなるとウンター・デン・リンデンの街路に行き交う人の靴音も何となく慌ただしくなって、フランスは国境に軍隊を集結させたなど、さまざまな噂がとびかうようになる。

環は、過日田丸博士をカイゼル・インスチテュートに訪ねた際そこに居合わせた某教授夫人から、ドイッ恤兵音楽会で歌ってほしいと懇願され、出演の予定をたてていたので、不安と喜びが交錯して何とも落ち着きのない時間が過ぎてゆく。

「もうどの方面の国境は連絡が絶たれそうだ」などという噂が次々に伝わってくる中で、今日は四人、明日は十人と国境を超えて避難する日本人が目立つようになる。田丸博士や三浦政太郎は「そんなに急がなくても」と落ち着いている。

大使館から通知があり、時をみてべルリンを引き揚げたがよかろう。(8)荷物は大使館で預かるとのことで着換えだけを手許において、荷物はすっかり大使館に預けた。

翌日の十四日になると「今夜の十一時までにべルリンを引き揚げねば日本からの送金の道は途絶える」とのことで急ぎステーションに行くと前田利為(一八八五~一九四二)はじめ留学生や軍人も百人余りが英国を避難地に選んで集まっていた。無燈火で走る寿司詰めの列車に身をすくめながらベルリンからオランダ国境まで一昼夜半もかけてたどりつく。

夜間のどの駅も銃を構えたドイツ兵のものものしい姿があった。十六日午後、オランダの政都ハーグに着いた環たちは、胸をなでおろす間もなく港へと急ぐ。翌十七日夕方イギリスの港に入港、夜半にようやくロンドンに到着、三日間の恐ろしい旅であった。(9)

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。