ただし、この点においても、泳法の技術を身につけ、さらには技能を向上させるという〈技〉の問題と、そのための練習に意欲的に取り組むことを促す、あるいは、内なる力を引き出す〈術〉の問題とがあると感じられている。また、一つには、生徒のことばとからだにどう的確に応じるかという〈技〉の問題がある。

突発的だったり、不随意的だったり、例外的だったり、偶然だったり、などなどさまざまな子どもから発せられるパフォーマンスに、いかに冷静に向き合い、的確に〈技〉を繰り出すかという問題である。この点においても、個々の子ども理解をベースとする、その生徒にとってふさわしい、その生徒らしさに寄り添った〈技〉を展開するための、教師のあり様としての〈術〉の問題があると感じられている。

前者は意図的・計画的に繰り出すことが基本となる〈技〉と〈術〉であり、後者は多分に非意図的に、それこそ不意を突かれたような時にもとっさに繰り出さなければならない〈技〉と〈術〉となる。前者の〈技〉は、教材研究や実技研修などによって身につけなければならないものである。

〈術〉については、多くの教育実践者や研究者が語る、謙虚さと通じるものがあると感じられている。一方、後者の〈技〉は、教師としての資質・能力が多分に関わるが、生徒(人間)理解を深め、実践を通して培われ、さらに反省的に実践することを通して洗練され、磨かれていくものではないかと感じられている。

そればかりではなく、「教育とは何か?」という深い問いと向き合うことが要求されると考えられる。そして、〈術〉については、不意を突かれても平常心を保ち、無心に、──的確な〈技〉を選択し、──繰り出すことのできる、そうしたあり様を、稽古を通して身に付けることが必要なのではないかと感じられている。

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『教育現場の光と闇~学校も所詮〔白い巨塔〕~』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。