二つの唐津──韓国内陸行

韓は帯方の南にあって、東西は海を境界とし、南は倭と接す。【三国志魏書韓伝】

(弁辰の)瀆盧国は倭と(境界を)接している。【三国志魏書弁辰伝】

この短い記事を素直に解釈すると、朝鮮半島の南端に倭の領域─狗邪韓国─があり、弁辰の国々から産出する鉄を、韓・ワイ・倭が競って採っている記録が残されている。

帯方郡治址はてっきりソウル近郊と思い込んでいたが、仕事で韓国を訪れる機会が増え、その都度知り合った現地の方に「帯方郡治址は、どの辺にあったのですか?」と決まった質問を繰り返す。

すると相手の誰もが首を傾げてしまう。一時期これは韓国の歴史教育のなせる業、「過去の歴史事実」をそのままに教えていないためかと訝っていた。

しかし、改めて手元の史料を繰ってみたところ、東洋文庫版『三国史記(新羅本紀)』の解説には、帯方郡治址として現在の北朝鮮「黄海道鳳山郡文井面」説と「同沙里院邑」説が挙げられている。

通説ではそれがソウル北方の臨津江河口辺に比定されている。そこを起点に「海岸に循って水行し、韓国を歴て」と続く。ここで話を転ずることをお許し願いたい。

日本へ留学するには、入国管理局の審査を受けなければならない。受け入れ先の学校・機関で申請書類を提出前にチェックするが、韓国から留学を希望する学生の書類を観ているとき、「基本証明書」(日本の戸籍謄本に相当するもの)に役所の所在地として、「唐津(忠清南道)」という地名を見つけた。

基本証明書

ここは九州の唐津と同様、古代において外国(この場合は中国)からの寄港地だったのではないだろうか。

帯方郡を出発して海路を南下、唐津に上陸した魏使は「乍南乍東」、馬韓(五十余国)・辰韓(一二国)・弁韓(一二国)を歴訪し、狗邪韓国に至ったと思われる。

余談だが、私の職場に韓国人スタッフのチョ(趙)さんが配属されてきた。出身は全羅北道の全州チョンジュだそうだが、彼女の話によると全州の南側に位置する光州クァンジュの人たちは、ちょっと異質だそうだ。

地理的には隣接しているのに、言葉が全然違うと言う。