それでも駄目な時は、救済策として、教授がカードの別の束を出して来て、そこから無作為に1枚引く。そして、同じように説明したり、教授の質問に答えたりするのだ。

実習中、何が聞かれるか念頭に置きながら解剖を進めるつもりだったが、忘れていることの方が多い。

クラブ活動などをしている連中は先輩から、有り難い情報をもらえるらしいが、僕は何にも属していない。それでも彼等に頼めば見せてもくれるだろうが、積極的に働きかける気はない。そうして、幾つか追試を受けるはめになった。

この世界で、情報は大事だ。一方で、自力で何とかするさ、と意地を張ることもあった。最初の内、ここは重要だ、ここは出るだろう、と考え、見当付けたりしていたが、いつの間にかもう流れるままの作業になってしまった。

この辺で少し休憩を入れようや、と僕が提案すると誰も反対しなかった。僕は、売店へ行く三人と分かれて、一人構内を散歩した。

以前、紫藤麗華と宮本助教授を見かけたところにさしかかって、ふとその物陰をのぞき込んだ。そこにいたのは紫藤麗華だった。

煙草をくゆらせていた。そして、僕に気づいて無表情な視線を投げかけてきた。直感的に、この間の宮本助教授との一件を僕が目撃したことを気づかれている、と感じた。

ほとんどそれまで話したことは無かったが、僕は照れ隠しに、話しかけた。やあ、紫藤さんが煙草吸うとは知らなかったな。

「遊び半分なのよ、本気で吸うつもりはないわ、一応医学生なんだから。喫煙がどんなものか、一応知っておこうと思って」

紫藤は静かに答えた。危ないことが好きなのか、と僕は心で思って、ふといたずら心が湧き上がった。紫藤さんは、成績優秀だからいいよな。

僕は、記憶力や理解力が悪いから苦労しているよ。特に、生化学なんかが苦手だ。ちらっと紫藤をみたが、表情をかえなかった。

いろいろ覚えること多いけど、どうやって覚えているの? 特に細かい図や表などを。例えばクエン酸回路の図なんか。僕は紙に何十回も書いて苦労して覚えるけどね。

「ああ、ああいうのはカメラで写すように、眼に焼き付けて覚えるのよ。パシャッ、パシャッとね」

僕は手でバイバイの合図をして、立ち去った。自分とは別世界の人類のように感じながら。紫藤はきっと本当にそうやって覚えているのだろう。

医学部の女子学生は、脳内思考回路のどこかに、ハンダ付けすべき所を忘れられたままのような一部の女子学生たちとは異なっていた。

そのかわり、逆に思考回路が複雑すぎ、時に考え過ぎなように思えた。利口、要領がいいというのは、時に頭脳の回転の良さを見せつけたが、別の時には、卑怯でずる賢く、油断ができないように、僕のような者の目には映った。

そして、自分たちの洞察の鋭さの故に、自分の論理的類推の予想の結果に自信を持ち過ぎているようにも見受けられた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『正統解剖』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。