肺が姿を現し、取り出す

もし中間試験があるなら、きっとここらは重要事項だろう、しっかり押さえておかねばなるまい。僕はまだ半信半疑だが。ふと高本教授の穏やかだがよく通る声が響いた。

「今日は、新聞に気になる記事を見つけました。20代の男性が、自然気胸で、某病院で手術中に大出血を起こし、出血性ショックで亡くなったという記事です。詳しいことは分かりませんが、もしかしたら肺静脈かそのあたりの大血管を傷つけたのではないか、と推察します。ちょうど、今あなた方が取りかかっているあたりですので、よく注意して解剖を行ってください」

肺はこれで終えて、次にテキストに従い、首の深層へ移る。その前に、白い大きな布袋が助手の先生によっていつの間にか各班に用意されていた。遺体から摘出し、切開あるいは分解などした臓器を入れて、次々と足してゆくための袋らしい。

今までは皮膚の切開、筋肉の切断など大きな塊としての外したものはなかった。さっそく肺と前胸壁を入れる。これを最後にどうするのかは、今はまだ自分にはわからない。

「これ、どうするんだろう?」

僕は思わず誰ともなく聞いた。誰も答えない。高尾も、兄からは聞いてないらしい。

「まあどうにかするんでしょう」

高久が少しおどけて言い放った。それもそうだ、いずれわかる時が来る。みんな内心うなずいた。日々、白い袋はふくれてゆくだろう。

次は首の深層、無気味な場所だ。他人の首の付け根の深い所をほじくるのである。

頸神経叢はC1~C4(Cは頸椎のこと)の前枝によって形成される重要な神経叢である。その枝である横隔神経を見つけて下方までたどる。前斜角筋の前方を下降し、鎖骨下静脈と動脈の間をくぐる。

横隔膜まで続くはずだ。心膜や胸膜にも一部が分布しているらしい。(*"頸神経叢図")

胸骨舌骨筋と胸骨甲状筋の断端をめくりかえすと、甲状腺が出現する。僕の貧弱な知識では、バセドー病しか思い浮かばないが、咽頭から食道または気管への移行部あたりを取り巻いている。

広げると、蝶が羽を広げたような形らしい。その羽の四隅に上皮小体という、米粒くらいの分泌腺があるはずだが、自分たちのライヘではよくわからなかった。

ふと、実習着が暑苦しく感じられた。思えば、まだ肌寒い時もあった初春の頃から始まったこの正統解剖も、はや初夏が近いことを感じさせる頃になっている。

自分が気づくか気づかないだけで、確実に時は過ぎて行っている。そして、とりあえず、生理学、生化学、組織学、発生学、薬理学などのやがて来る試験の群れをクリアしなければならない。

それに加えて、解剖学実習は特別に大きな関門ではあるが、これから幾つも待ち受けるうんざりする試練の数々を僕はクリアしてゆけるのだろうか。

去年の骨学実習の試験の様子は、次のようだった。まず全員一つの教室に缶詰めにされる。そして、班ごとに控室に呼び入れられ、一人ずつ別の試験室へ入ってゆく。

大きくて横長いテーブルの向こうに試験官、すなわち教授が座り、学生はこちらに座る。目の前にはカードが4、5枚あらかじめ伏せてあって、どれかのカードを選んで引く。

そして、裏返して教授と共にその文面を確認し、書いてある事について説明するのだ。そして上手く説明できないと、目の前の別のカードを再び引いて、説明する。