謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
阿佐見昭彦氏の小説『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋。心地が取り出したパレットにはピエトロ・フェラーラのサインがあった。しかしそのパレットには不可解な点がありーー。
宗像はコジモにもらった、例のフェラーラの家族写真を取り出して説明を始めた。
「この左側に立っている大男がピエトロ・フェラーラだ。ここを良く見ろ。キャンバスの中央に筆を載せてポーズを取っている男の手、ほら右手だぞ。やはり彼は右利きだよ」
「ほほう、これがフェラーラか。なるほど右手で筆を持っている。細身だがかなりの大男だな」
心地がまじまじと写真を見ながら喋ると、モーニントン女史が頃合を見計らって言った。
「宗像さん、私もこのパレットを手にして左利きのものとすぐ分かりました。確かにヨーロッパでも左利きの画家の比率はそれほど高くありません。そこで鑑定室で絵の方も調べてもらいましたの。一般論ですが、その絵を左手で描いたか右手で描いたかは概ね判別できるそうです。
例えば、右利きの画家の絵に、通常引かない線、正確に言えば引きにくい線が表れることはまずないそうで、反対も同様です。でも百パーセントの断定は困難で、八、九十パーセントの確率だそうです。プロの絵描きでも、左右とも同じ巧みさで絵を描ける人は稀だそうです。やはり、利き手といいますか、得意な方の手というのが決まってしまうようですから」
「完全な両手遣いなどはいない?」
「そのようです。ですからナショナル・ギャラリーが所有するフェラーラの絵についてですが、今回特別に鑑定を済ませましたの。その結果、九十パーセント以上左利きの画家が描いたものであると判断されたのです。
しかしこの絵の判定には大変苦労したようです。どうしてかと言いますと、完成間近になって、絵に特殊なテクニックの引っ掻き痕が施されたからです。これによって絵に残された筆跡は不鮮明になってしまいましたから。でも幸いと言いますか、この痕は全面に施されていませんでしたので判断することができたのです。
余談になりますが、レオナルド・ダ・ヴィンチのことです。この画家は左利きと言われているのですが、非常に特殊な描き方をしていますので、筆跡では簡単に判定できないそうです。ダ・ヴィンチの絵には筆の跡がほとんどないものがあるのです。これはスフマート技法と呼ばれています。
絵の具を胡桃油などで普通よりやや薄く溶き、絵の具をつけた筆で小さい丸を描くようにキャンバスに擦り付けながら、何度も重ね合わせていく手法です。それで方向性が分からなくなって。でも、ダ・ヴィンチの場合はこの技法そのものが特徴の一つになりますけれど」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商