お母さんが荷物を山と積んだリヤカーを引っ張り、沖田くんがその後ろを押していた。荷物の隙間には小さな女の子がいた。

一家もやはり少し先の広いところで止まった。

思いがけない成り行きに驚いて、私は目を離すことが出来なかった。みんな、顔も着ているものも煤で汚れ、疲れ切ったようにぼんやりと地面に座り込んでいる。

その時普段なら絶対に思いつかないし、やりもしないことを私は実行した。家の中に取って返し、大きなやかんに水を汲むと、コップを持って一家のところに行き、黙って差し出した。

沖田くんのお母さんは、最初驚いた顔をしたが、「なんや、あつこちゃんやないの、これは、これは」と言った。

おおきにねと言いながら、コップを受け取り、まず女の子に飲ませた。続いて沖田くんがぶすっとしたままで飲もうとすると、「お礼を言いんさい。大きいくせして」と叱った。沖田くんはちょっと頭を下げて飲み干した。

水は周りの人たちにも少しずつ渡って、私は空になったやかんを下げて家に戻った。  

空気はますます熱くなった。この時町の中心部では一分間に七戸の家屋が焼け落ちていたのだ。

こちらにも火のついた煤が盛んに飛んできた。真っ暗だった久松山にぱっぱっと火の手が上がり、炎は縦に伸びたかと思うと横にも広がった。美しくも恐ろしい光景だった。

これでは前後から火に挟まれる、小休止していた人たちが動き出した。

その時初めて私は恐怖を感じた。家が燃える、大事にしていたものが全部なくなってしまう、それより火に追われたらどうなるのだろう。
 
が弟をおぶって乳母車を押し、私は妹たちの手を取った。母が「絶対に離れちゃだめよ」と言った。

家を後にしようとしたまさにその時、メガホンを持った男の人が「風の向きが変わったぞ!」と叫んで通っていった。私たちは家に止まって様子を見ることにした。

いつの間にか眠ってしまったらしい、父の声で目が醒めた。外はもう明るかった。

父は焼け跡を歩いてきたと言って、その様子を話してくれた。

向きを変えた火は、触れるものを焼き尽くしながら西へと延びていった。火が収まったのは、出火から十二時間経った午前三時だったという。

山腹に火の手が上がっていた久松山は、風向きが西へと変わったお蔭で自然に鎮火した。山裾近くにあった県庁や市役所、裁判所などの公的な施設は、幸いにも類焼を免れた。父の勤務先も、私の中学校も焼けなかった。とはいえ「町の半分は焼けた」と父は言った。若桜街道を境に、西の智頭街道、鹿野街道沿いの辺り一帯は焼け野原になった。

沖田くんの家は若桜街道の西側にある。どうだったのだろう。父の話によれば、もっともひどく焼けた区域だ。

朝いつもの通り学校に行ったが、登校してきた生徒は半分にも満たなかった。

水を持っていったことを思い出すと恥ずかしくて、どういう顔をしたらいいだろうと悩みながら行ったのだが、沖田くんの姿はなかった。

しばらく休校が続いた。再開した日、先生から何人かの級友が転校したことを伝えられた。その中に沖田くんの名前もあった。住む家がなくなったので、田舎に帰ったのだという。さよならも言わないでと私は心の中で思った。

焼失した中学校から転校してくる子や、教科書が揃わない生徒がいたりして、ざわざわとした学校生活が続いた。

少し落ち着いた頃、私は図書室に立ち寄った。いつものように『ドリトル先生』のコーナーに行くと、その中の一冊に紙切れが挟まっていた。

それは、厚紙に蝶の羽を貼り付けた手作りの栞だった。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『昭和の残り火』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。