2001年9月11日。青く澄み切った空にそびえ立つ世界貿易センタービル(World Trade Center)のツイン・タワーが、もろくも崩れ落ちていく様を私はクィーンズの自宅から眺めていた。ブッシュ大統領はテレビを通じてこう言った。

「これは戦争だ。我々は頑として闘う。」

あの日、ニューヨーク中がパニックに陥っているかのように見えた。しかしその一方で、仕事が休みだと喜ぶ者もいる。迷彩服を身にまとったアラブ系の若者が、奇妙な笑みを浮かべながら自転車に乗り、全車両通行止めの通りをゆっくりと走っている。片手には旗が握られていたが、それがアメリカの国旗ではないということは確かだった。

また、塵と灰じんにまみれた現場近くの一角に営業中のレストランがあった。この緊急事態にほとんどの会社や店がシャッターを閉めている。店内に入ると、中国人の女性がいつもと変わらない様子で仕事をしていた。如何なる状況の中であっても、このニューヨークで生きていくために店を開け、一日でも多く働く。彼女のしたたかさが伝わってくる。

9.11以降、改めてわかったことがある。アメリカ人として、どのように自分を位置付け、アイデンティティを意識しているかは個人個人違うということだ。ブッシュが発した“This is war.”の言葉に愛国心を奮い立たせた人間もいれば、普段と変わりない日常を送っていた人間もいるのだ。

アルカイダは、世界経済の中枢を担うウォール街、富と権力の象徴である世界貿易センタービル(WTC)を攻撃した。酷い事件である。しかし皮肉なことに、同じアメリカ人の中にも、「強いアメリカ」を憎んでいる人間がいるかもしれないのだ。それでも、人の命や尊厳に優劣はなく、肌の色や宗教、民族の違いによって、それが傷付けられたり、無理やり奪われたりすることがあっては決してならない。

「あなたはどう思うの?」

「ブッシュはバカだよ。イラクの本当の怖さを知らないんだ。ただ権力でねじ伏せようたって絶対に無理だ。」

彼はいままでの沈黙が嘘のように、イラクがいかに強力な武器や兵力を持っているのかを熱く語り始めた。しかし、スキンヘッドとチャビは全く聞く耳なしである。

「っでさぁ、彼女、いま“I don’t give a f**k.”って言わなかったか?」

「言った、言った。」

私の思いがけないcurse(なじり)言葉にスキンヘッドとチャビは驚きを隠せない。そして2人が言った。“She’s Hip Hop.”

ヒップホップは相手をディスし、curseする(なじる)文化だ。彼らの会話は、辞書にも載せられないような放送禁止用語満載、そばで聞いていると、まるで喧嘩をしているかのように感じられるときがあるが、決して言い争っているわけではないのだ。

しだいに日が暮れてきた。冷たい風が身体に吹き付ける。スキンヘッドはフードで小さな頭をすっぽりと覆い、一定のリズムに乗りながら、地面を軽く蹴り付けている。寒さで硬くなった身体をほぐすかのように、上半身を小刻みに動かす。

「寒いの?」

「違うよ。ボクシングだよ。」

スキンヘッドは13歳の頃にボクシングを始め、すでに10年以上が経っている。

気が付くと仲間が1人、2人と増えている。これからみんなで酒を買いに行くところだ。結局、イラク問題やブッシュのことよりもおもしろくて、楽しいことが彼らにはあるようだ。
 

 
※本記事は、2020年11月刊行の書籍『HOOD 私たちの居場所 音と言葉の中にあるアイデンティティ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。