天女は、蚕飼いや機織り、米づくり、酒づくりと何でも上手で、比治の里の人々は、天女からいろいろと教えてもらいました。天女のおかげで、比治の里はみるみる豊かになり、人々は幸せに暮らせるようになりました。しかし、天女は天が恋しくてたまりません。

ある日、大黒柱に隠されていた羽衣を探し出すと、羽衣を身にまとい、「7月7日に会いましょう」と天に帰ってしまいました。それを見ていた天邪鬼が「7月7日に会う」とさんねもに伝えます。悲しむさんねもの手には、天女からもらったゆうごう(夕顔)の種あり、蒔くと、ゆうごうのつるは天に向かって伸びてゆきました。さんねもは、つるを伝って天まで登っていき、天女たちがいる天上の世界にやってきました。妻の天女が寄ってきて言いました。

「天の川に橋を架けて下さい。けれど、架け終るまで私のことを思い出してはいけません。そうしたら、あなたと一緒に暮らせます」

喜んださんねもは、一生懸命に橋を造りあと少しででき上がり天女と暮らせる、とうれしさの余り約束を忘れて、天女のことを思い出しました。すると、天の川がみるみる内にあふれ出し大洪水となって、さんねもは橋もろとも下界へ押し流されました。

その後、比治の里の人々は、天女の娘の一人をお祀りするため、小さな社を建てました。これが乙女神社だと伝えられています。現在でも年に一度七月七日に、さんねもと天女が出会う日に大路では七夕祭りが行われています。

大正15年(1926年)に竣工した朝鮮総督府庁舎に掲げられた「羽衣」は、この話そのものを描いているのです。

「内鮮一体」があたかも昭和に入り軍国主義化するなかで、朝鮮半島に住む朝鮮民族を日本の侵略戦争に利用するために出されたかのような説を唱えている人もいるようですが、まったく違うことが、わかっていただけるのではないかと思います。

同時に、近ごろ朝鮮半島からの引揚げ日本人の多くが亡くなり、ほとんど声を上げられない状態になったのを待っていたかのように湧いて出てきた、人類史に残る悪行、ドイツの「ホロコースト」と、日本の朝鮮半島の併合政策を同一視させようとする話が、いかにでたらなものなのかも示せるのです。

西洋の宗教観から来る根深いユダヤ人差別の問題を、巧みに利用していったドイツの国家的犯罪は、天照大御神と須佐之男命と系譜は違えど、同じ高天原の神の末裔として朝鮮半島の朝鮮民族を扱っていた日本の方針とはまったく違うものでした。

併合前から、明治天皇を始めとした最も日本の歴史・伝承に詳しい方たちにより示されていた「朝鮮半島に住む出雲族を助けよ」。

これは、昭和に入ってもはっきりとは表に出さずとも、基本方針として朝鮮総督府は動いていたのです。

祖父の靖国も、京城駅完成後も引き続き朝鮮に残るよう命令を受け、所属を朝鮮総督府鉄道局に変えたのちの昭和10年(1935年)まで、京城勤務が続き、昭和11年から昭和12年と、城津(じょうしん)建設事務所(咸鏡北道城津郡城津邑本町)に。昭和13年から昭和14年と、(こう)(りょう)建設事務所(江原道江陵郡江陵邑)と周り、昭和14年、任期途中突然戻るように命令が入り京城に戻されました。

おそらく、柳会最後の集いで出ていた、第二回目の韓国皇帝擁立計画に伴ってのことだろうと思いますが、日中いきなり事務所から戻ってくると、

「京城に戻ることになった」

としか話さず、家族が何を訪ねても黙々と荷造りを始め、なぜ急に京城に戻るのかすら話さず、戦後もそこの話には触れることはなかったそうで、残念ながら詳細が伝わっていません。

しかし、咸鏡北道にあるのが白頭山で、須佐之男命が降り立った曽尸茂梨の候補地であり、日本の豊受大神の伝説と同じ朝鮮の羽衣伝説が残る場所でした。

江原道は曽尸茂梨の候補地の牛頭山(須佐之男命を祀った江原神社を大正8年に建立)と金剛山がありました。

昭和14年に戻ったのちは、終戦後の昭和20年(1945年)12月上旬まで、京城に留まるのですが、父を伴いたびたび近所の朝鮮神宮に参拝に行くと、祖父は宮司さんと話し込んでいたそうです。

「何を話しているかはわからなかったが、しつけが厳しい時代、終わるまでこっちは正座して控えてなければならず大変だった」

と、父は当時を思い出してはこぼしていました。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『受け継がれし日韓史の真実 ─朝鮮引揚者の記録と記憶』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。