福岡へ発つ園井を見送るとき、私は泣かなかった。短い間でも、身に余る夢を見させてもらったから。それだけで十分幸せだった。園井なら、どこにいてもうらやむような彼女ができるだろう。私のことなんか、すぐに過去の遺物になる。彼の将来を真剣に見据えたら、私ごときが足かせになるべきではない。

だから彼の子供ができたとわかっても、あえて知らせなかった。もしこのことを知れば、優しい園井のことだ。新しい会社と自分の可能性を諦めて、一緒に育てる道を選んでくれたかもしれない。でもそれは長い目で見て、彼にとって大きなマイナスである。せっかくキャリアアップの機会を手にしたのだ。彼の才能を生かせる会社が、悲しいけれどこの近辺になかったのだと諦めよう。

私は認知してもらおうとか、今でも全然考えていない。大好きだった園井の置き土産を、ひとりで大切に育てていこうと決めた。もうひとつの消極的な方法は選択肢にあがらなかった。この街を離れられない私に、今まで流されるままだった私に、新しくて大きな目標が生まれたのだから。

「ほら、元気な男の子ですよ」

優しそうな助産師さんが、ベッドに横たわっている私に我が子を連れて来てくれた。まだ腰に力が入らなくて起き上がれない私は、そうっと横に寝かされた小さな命に向かって、横になったまま体の向きを変えた。

薄く口を開け、目を閉じた小さな顔は赤黒く、髪の毛もまだ濡れている。ありがとう。優輝。元気に生まれてくれて。男の子なら、名前は優輝と決めていたのだ。

嘘みたいに小さな掌に指を伸ばして、軽く握られた指にそっと触れてみる。本能だろうか。

優輝は私の人差し指の先を、その小さな指でぐっと握り返してきた。それはえっと思うほど、強い力だった。

こんなに小さな体なのに、まだ生まれたばかりなのに、この子はしっかりと生きようとしている。そして当然だが、私を必要としている。私は指先にかかるこの力を、いつまでも忘れないと誓った。もう私はひとりじゃない。今日から、この子と二人で生きていくのだ。辛い時も、楽しい時も、いつも一緒だよ。

あの日見た夢で、父は来年の六月頃に会えると言っていた。今日は六月三日だ。偶然だが、この日は父の命日でもあり、妙に運命じみた何かを感じてしまう事実である。

しかし、いかにリアリティに満ちていようと、しょせん夢は夢。まさかこの子の中に、すでに父が存在していて、今まさに再会を果たしているなんてことは、仏学や信心事からほど遠い私には考えも及んでいなかった。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『小節は6月から始まる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。