漁火の二階で始めた生活は、港町のまったりとした雰囲気と周囲の人たちの優しさもあり、ほとんど精神的なストレスを感じることもなく過ごせ、奈美の心の傷を癒すにはちょうど良かった。

奈美が漁火に来てから一月ほどが経った頃だった。気圧の配置がどう狂ったものか七月初旬の鬱陶しい雨が続く中、久々に朝からカラリと晴れた日になった。

「奈美ちゃん、天気は良いし、今日はお店を休みにしてどこかに出掛けよか? 志摩を少し案内してあげるわ」

学校の夏休みにはまだ間があり、志摩は観光シーズン真っ盛りというわけではなかったが、遅い朝食を済ませると美紀はそう言って奈美を連れ出すことにした。

奈美は漁火に来てから一月ほど経つが外には一歩も出ておらず気晴らしの積りだった。美紀は気病みの身には外の新鮮な空気を吸わせることも必要だと思ったのだ。

漁火は特別の日を除き週中日の水曜日を休日と決めて喫茶店もスナックも休みにしていたが、休日はあいにく雨の日が続き中々連れ出す機会がなかったのだ。

漁火を車で出ると近鉄志摩線のターミナル駅である賢島駅近くの駐車場に車を停めた。そこから緩い坂道を歩いて二分ほどで海に出る。気晴らしの旅であり急ぐことはない。

真珠の文字がやたらと目につく土産物屋を冷かしながら乗船場まで歩いた。梅雨の合間とはいえ真夏と変らぬ日差しが降り注ぎ、肌がしっとりと汗ばむほどだった。

海から穏やかに吹いて来る潮風がそう思わせるのかここでは時間さえもゆったりと流れているように感じられる。二人は遊覧船で一時間足らずの英虞湾を巡るコースのキップを買った。

「船に乗るなんて何年ぶりかしら。ママはよく来るんですか?」

美紀からキップを渡されると奈美がはしゃいだように訊いた。

「小さい頃に母親に連れられて来ただけよ。海から見ると英虞湾が陸から眺めるのと違ってまた綺麗に見えるの。我が故郷の良さが再認識できるというわけ。でも地元の者はそんなに来ないわね」

そう言うと美紀は強い日差しが気になるのかバッグからサングラスを取り出して掛けた。

小さな海辺の町で生まれ育ち、スナック「漁火」で働く美紀には小学生の頃の忘れられない思い出があった――。つましくも明るく暮らす人々の交流と人生の葛藤を描いた物語。
※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。