一つには多くのがんを体験したという病歴が関係しているかもしれません。Iさんの場合、多くのがんを体験し、「死」と正面から向き合う機会が多かったのは事実です。

健康なときは「死」と真剣に向き合うことはあまりないかもしれませんが、健康な人であってもいつかは「死」に直面し、それと対決せねばなりません。

暗愁あんしゅう」という言葉をご存じでしょうか?

私はたしか五木寛之氏の著書で知ったような気がします。生命は有限であり、自分の力ではどうしようもない力で死に向かって押し流されている……。

このことを感じるときの暗い闇の世界に沈み込んでしまうような感覚。この感覚を「暗愁」というのだそうです。

しかし、このネガティブな感情があるからこそ、「じゃあ生きている間に何をしよう……」というアクティブな感情にもなり得るのですが、この陰から陽への転換のためには何が必要なのでしょうか?

元々人間にはそのような能力が備わっているのでしょうか?

「暗愁」を乗り越え、アクティブに生を楽しんでいる人々は私の周りにも大勢います(ただし、常にその状態が維持できているとは考えられません。みんな迷い、悩み、常に努力しています)。

病気を得て、「暗愁」に引っ張り込まれたとき、それを跳ね返す何らかの大いなるもの……。こういう力が人間には与えられていて、Iさんもこの大いなるものに導かれて、死へと流されながらも淡々と過ごせたのではないかと思います。

人の一生を航海に例える(本当は漂流かもしれませんが……)なら、荒海はこの「暗愁」に、航海を支える船はこの大いなるものに例えられると思います。

荒海を体験すればするほど、その船は大きく強くなっていくのではないでしょうか。Iさんはいくつもの荒海航海を繰り返しているうちに船は大きく強くなり、自分に与えられた定めを受け入れる力を得たのかもしれません。

Iさんの「あとは死ぬだけ……」はそれだけ大きな意味があるのかもしれません。

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『生きること 終うこと 寄り添うこと』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。