逢魔が時:三姓穴

朝鮮最南端の島である済州島に三姓穴と呼ばれる傳説の洞がある。

此の島は全南木浦の港から多島海の島々を縫つて南に百浬、周囘(周回)二百五十(キロ)にも及ぶ朝鮮第一の大島であるが、最南端であるだけに朝鮮では最も暖かく、伊豆や小笠原の諸島のように婦人の働くので有名な所である。

いつのころであつたろうか、年代すらも定かではないが―年代が定かな位であればそれはすでに傳説ではない―突然此の済州島に三人の神人が地から湧出した。

その名を良乙那、高乙那、夫乙那といひ、暖い所であるので、この神人たちは毎日海に漁し山に木の實を求めて仲良く平和にその日を暮してゐた。

或る日の事である。東海の岸邊(岸辺)に紫の封を施した大きな木箱が漂つて来た。これを開くと一つの石函があり、紅の帯に紫の衣を着けた使者が随従してゐる。そして函を開けば青衣の處女(処女)が三人、それに駒(仔馬)や犢(仔牛)、五穀の類が積載されてあつた。

使者が言ふ「自分は日本の國使である。國王の言はれるには、天が西海中に三人の神人を降したが未だ配偶がない。依つて吾が王女三人を送る。宜しく配をなし一心同體(同体)國開きの大業を成就せよ」と。

言ひ終るや使者は白雲に乗じて去つた。三乙那は即ち年齢順に王女を娶り、五穀を播き、犢駒を牧し、年長の良乙那を王として子孫みな繁栄した。これが此の島の祖先であると。そして此の傳説の三姓穴はいまも漢拏(かんな)山麗に跡をとゞめ、入口には蒙古風の石像が道案内に立てられてゐる。

眞實(真実)を求める者の温かい無慈悲さを以て此の美しい物語の虚装を剥ぎ去るならば、私たちは此の扮まない言傳への中に内鮮一體の遥かなる祖先の姿を見ることができる。三乙那以前に此の島に先住の人々があつたにせよ無かつたにせよ、すでに三王女は大和の國から送られ、また地から湧いたと傳へられる三乙那も東海の日出づる國から降ろされた形跡十分で、當時は完全に大和の延長であり、内鮮一体或ひは内地そのものゝ如くにして此の常春の島の開拓はなされたのである。

此の島は後、任那の一國である(たん)()の國となった。

日本書紀に天智天皇八年正月耽羅の王子久麻伎(くまぎ)来朝し五穀の種子を賜ふと記されてあるのは、直ちに此の傳説と符合するものであるかどうか、何れにせよ深い交渉のあつたことは推察するに難くない。その後永い年月の間には多くの血の混交がなされ、また李朝時代には屡々黨争士(しばしばとうそうし)()の流刑の地となつたが、此の島の歴史とともに生ひ育つて来た住民の容貌骨骼(骨格)は非常に良く内地の人々と似通つてゐるといはれる。