岬良典みさきりょうすけは諦められない

昨日まで朝早く通った武蔵山脈に今日は夕方に向かう。明純がサクラの様々な山での写真をポスターのように印刷した。それを持って竹谷温泉近くの事務所に行く。筑紫は、その時一緒に作業していた若者二人も呼んでくれていた。そこで話を聞き、さらに思いを強くする。サクラは立ち入り禁止区域に入った。間違いない。竹谷温泉コースを歩いた息子達も、「滑落しそうと言ったら、どこでも滑落しそうだけど、木々が生い茂っているのに、何も引っかからないで、何一つ痕跡がないのはおかしい。身体ごとすべて持ったまま滑落するなら、木々の間ではないのではないか」と言っていた。

翌火曜から武蔵警察署の許可を取り、武蔵警察署の作ってくれたポスターを配ることにした。またラミネート加工して、四隅に穴を開け、結束バンドでしばりつけることにした。「レストハウス」「毘紐天」「駒草」「鬼塚」「愛染明王」の五か所にくくりつけた。レストハウスではポスターを貼ってくれて、さらにラミネート加工していない普通のビラを、何枚も置いてくれた。そして、「観光客より、登山客に渡した方が良いですよ」とのアドバイスもしてくれた。様々な場所で、いろいろな人にビラを配った。

また、鬼塚から妻と二人で、舗装された道をきつね温泉跡方向に向かい、絶壁からサクラを呼んだ。妻・明純は近くにいると思う、と何度も言っていた。左衛門小屋にはいなかったが、それでも、きつね温泉跡から左衛門小屋、この鬼塚にいたる難所のどこかにいるのだと、繰り返した。ただ、明純は気管支喘息で空気が薄い山では、すぐ呼吸が荒くなった。そのため、その鬼塚から片道十五分の舗装された道でさえ、休み休み通常の倍の時間をかけて歩いた。一緒に登れないのが悔しいと言っていたが、たった十五分の道でも息切れするのでは、行けないことはあきらかだった。サクラがいなくなって一度も泣いていないのは、強いのか、現実を受け入れてないのか、その時の明純を見ていても、良典には計れなかった。

そんな二人の心の支えの一つに、溝原朗子の存在があった。良典は九人姉弟の末っ子で、母親が四十過ぎてからの子供だった。十五年前に九十三歳で亡くなった良典の母は、岬リョウ子といった。良典の長兄・助一は八十七歳、その妻・まつえは八十五歳で、妻・明純の両親と同い年だ。

母のリョウ子は、明治生まれのカタカナ名前だが、良という字を使ったのは姉弟で自分だけ。リョウをもらって、良典になり、その良は、サクラのラ。良の字をつけた。兄二人が実在の人物より。ヒョウゴが柳生兵庫助(宗矩の兄の子供。徳川尾張家師範)から。イオリは宮本武蔵の養子の宮本伊織から。サクラだけが、自分の良の字を使ったオリジナルの名前だった。その、母と同じ読み方の名前、溝原朗子に初日からお世話になっていた。さらに、武蔵山脈管轄の武蔵市。なぜ、縁のある名前が続くのか、不思議な思いに捉われていた。

良典の木曜日の登山は、やっときつね温泉跡に着き、同じ道を戻ってどうにか帰って来た、という結果だった。当日溝原朗子を含めて三人同行のはずだったが、急きょ四人となった。引退した朗子の夫も同行してくれたのだ。というのは、前日たまたまレストハウスでビラ配りをしてたら、それを受け取った山岳ガイドの男性が、溝原朗子の夫だったのだ。二人でお世話になっているお礼をしたが、奇縁に相手も驚いたようだ。それが、突然の参加へと繋がり、七十代で引退している朗子の夫の健脚ぶりに驚かされる結果となった。

ほぼ、毎日武蔵山脈に通っているうちに瞬く間に再度日曜日がめぐって来た。やはり警察との合同訓練は、一斉捜索に切り替えられ、捜索初心者も含め、四十人の山岳捜索隊が、鬼塚に集合した。前日土曜日の夜に、ヒョウゴとイオリが来ていた。毎週実家に来るなど、大学時代でさえ無いことだった。