家を1歩出たらそこから「ヤマ」であり、家に帰るまでを「ヤマ」と言うのだそうです。普通、「山」とは陸地において周囲より高くなった場所を指します。しかし同時に「山(さん)」は「産(さん)」に通じ、モノが生まれる場所、恵の場所でもあります。多くの山村においては「山(やま)」は生活の糧を得るための仕事場とイコールであり、生活の舞台なのです。先にあげた言葉からは、「ヤマ」で生き続けるという「営み」に対する覚悟を感じます。同時に、企業の雇用延長や人生100年時代のセカンドライフなどという概念が、いかに都会的なものであるのかを思い知らされます。

さて、この仕事を進めるにあたって、さまざまな人に相談に乗っていただくのですがその過程で、「地方創生」そのものに対して、「地域を助けて」とか、「地方が沈めば日本が沈む、頑張れ」という肯定的な反応から、「税金を浪費する詐欺師」、「実現できない幻想を振りまく罪作り」などのネガティブな反応まで、実に多様な受け止めがあることを実感しました。

しかし、これらの反応には共通性があります。それは、どちらにしても「社会サービス維持のための人口確保」「雇用の創出」「収入の確保」などの全国一律の指標にもとづくゴール設定が前提になっていることです。村で接した人たちの顔を思い浮かべた時、私には大きな違和感しかありません。仮にこのゴールに到達できたとして、それが幸せなのか? 私の仕事のゴールはそれなのか? そこにはヤマで暮らすということの覚悟への答えが不在なのです。

丹波山村に限らず、どこの地域であっても、何に価値があり、何を変えるべきなのかを知るためには、地域を知り、暮らしを知る必要があります。例えば観光で地域振興を図るにしても、愛着の無い、通り過ぎるだけの観光客を大量に呼ぶのではなく、本当に好きになってもらえる少数の客に丁寧に接する方が、旅行客にとっても地域にとっても幸せなはずです。

私は、丹波山村には「ヤマに生まれ、ヤマに死ぬ」営みが可能な集落であってほしいと願っています。それは都会のみでなく多くの村落で不可能になりつつある生活であり、そのような可能性の存在そのものが、これからの日本に不可欠な財産となっていくことを、村に通ううちに確信しました。

丹波山村の風景鋭く切り込んだ谷沿いに広がる村。中心となる「宿(しゅく)」と呼ばれる集落周辺にはわずかな平地が広がるが(写真1)、

写真1:丹波山村(宿とその周辺)

隣の「保之瀬(ほうのせ)」と呼ばれる谷底の集落は、冬の1か月間、全く陽が差さない。(写真2)

写真2:丹波山村(雪の保之瀬の風景)

「道志・秋山・丹波・小菅」。山梨県内ではかつて、東部の集落を揶揄してこう呼び慣らしていた。丹波山村は、甲府から塩山を通り大菩薩峠の隣の柳沢峠を越えたところに位置する。山梨県側からは奥地の奥地に見えるが、東京側からは、青梅から車で奥多摩湖畔を通り1時間ほどで着く。中心から見れば辺縁だが、ネットワークに目を向ければ結節点であることが見えてくる。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『intelligence3.0』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。