五月二十日は生僧の雨であったがタ方新橋停車場に見送りのため、親戚や友人、知人門下生とその父兄達数百人がつめかけその歓送風景は花の咲いたような賑わいとなった。

環は紫縮緬の裾模様の袷に絽の被布を羽織って、髪は束髪、左手に黒革のハンドバックを持っている。政太郎は環の右後ろにやや離れリーゼントの髪をきれいに梳かし、蝶ネクタイのフロックコート姿、謹厳な面持ちで軽く会釈を交わしていた。(2)

門下生の関屋敏子が父祐之介に伴われ、可愛い振袖姿で環に花束を贈る。七時十分、汽車は黒煙をあげ新橋のプラットホームからゆっくりと離れ去った。

途中小田原、静岡に一泊し親族に別れを告げ、五月二十三日、神戸港を午前十一時出港の、熱田丸に乗船した。なお熱田丸は五月二十日の正午、横浜港を出港、神戸に停泊し、その後門司、上海、香港、新嘉坡、馬拉加等に寄港、馬耳塞、倫敦に向かった。

船中日記と回想(3)

・五月二十七日(水)

上海上陸。日本小学校の生徒が、えび茶の袴をはいて、からかさをさして行くものもある。

・六月一日(月)〈注、香港にて〉

久しぶりで歌った。皆が聞きに来るので、とてもよく練習は出来ぬ。

タ食前、私は船の動かぬうちに洋服を今夜着たいといったら、君様がシンガポール以後まではよせといわれたので、私がいやな顔をしたとて大変に君様が神経にかけられて、この様子で意見が合わぬでは末、始終一緒に暮らすことが出来るや否やを心配すると言われたので、私はびっくりしてしまって悲しくなってしまった。

(略)もう教育することは出来ぬと言われた。それはわがままということは知っている。けれどまさかに夫と一緒におれぬほどのわがままではないと思う。

捨てられると言うおそろしいことが、ひしと胸に浮んで、君様のようにやさしい人の心の中に、どうして思いもょらない別れというような気が浮んだかしらと思うと、私は急に元のたよりなさにかえって、あんまりにのんきにしていたものだからと後悔しつつ、悲しくて悲しくて泣けてしまった。

今日の話が実現されるようなことがもしあれば、私は一生のおわりとする悲しみをした。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。