第四章 2015年(後)

2015年10月7日(水)

セカンド・オピニオン

今日、9時30分に、全体説明に呼ばれていた。入院中のように面談室で説明されるのかと思っていたが、通常の診察室で、順番を待つのであった。

20分ほど早く行ったが、実際に順番が来たのは10時を過ぎていた。良子、あい子と、三人で診察室に入った。

A先生の説明は、29日のPET-CT検査、30日の注腸検査結果を終えて、「転移先は発見されなかった」、つまり、先月25日に受けた説明と「変わるものはない」ということであった。私たちは安堵した。

良子は終始穏やかな顔をしており、普通に先生としゃべった。「野村さんは元気ですね」と先生は、前に言った言葉を今日も言った。「お母さんは元気ですね」とあい子にも言った。

今回の一連の “騒動” の中で、良子の、落ち込んだ姿を見たことはなかった。

淡々としていた。今回に限らず結婚して48年、彼女が動揺した姿をほとんど見たことがない。

A先生の説明要点は次の通りである。

  1. 大腸以外にがんはなかった。

  2. 「印環細胞がん」というがんで、大腸にできることは極めて稀である。

  3. スキルスがんにまでは至っていない。

先生は13日火曜日の会議に掛けたいと言った。手術の日程、方法を決める会議であると思う。

セカンド・オピニオンについてあい子が話した。

姪(あい子にとっては従姉妹)夫婦が医者で、そのアドバイスは、「がん研 有明病院」でセカンド・オピニオンを取ってみるように、ということであった。もともとセカンド・オピニオンの話はあい子が先生にしていた。

セカンド・オピニオンについては、病院側にまったく抵抗はない。この病院自体が、他からの「セカンド・オピニオン相談窓口」を持っている。A先生も、紹介状はすぐ書きます、とおっしゃった。

そして「紹介状」は夕刻、あい子が取りに行くことになった。ただ先生は、13日の会議に掛けるか掛けないか、前日までに連絡を下さいと言った。当然のことである。

このことについては、良子の退院のあと、家族で協議していた。

私の考えは、がんは生きているのであるからできるだけ早く除去するのが良いのではないか、「がん研 有明病院」でこれから協議を始めて施術の時期が早まるとは思えない、「病院は良かった。医師も良かった。しかし手遅れだった」というのが怖い、というものであった。

あい子は、可能な限り、あらゆる手段に当たってみるべきだ、と言った。私は本件については、お前とお母さんで結論を出してくれ、と逃げた。

9月30日にあい子が「がん研 有明病院」に問い合わせたところ、現在の担当医の「紹介状」が必要、とのことであった。

すぐに、みなと赤十字病院へ連絡したところ、A先生は10月6日迄不在ということだったのである。

その紹介状が本日夕刻手に入ることが確かになったので、あい子は改めて「がん研 有明病院」に連絡した。

そして予約できた最短の相談設定日が、13日火曜日であった。

日中はA先生と連絡が取れず、夜になって先生から、拙宅に電話があった。私は「がん研 有明病院」でのセカンド・オピニオン取得が13日まで不可能なことを話した。

有明病院で治療を受ける可能性があるなら、みなと赤十字で13日の工程会議に掛けることを辞退するのがスジである。

私は、もう一両日結論を待って頂きたい、と話し了解を得た。

しかし直後に、13日の工程会議を外した場合、毎週火曜日に工程会議はあるのか、つまり単に「1週間の遅延」の話なのか、きっちり確認できていなかったと気付いた。

あい子にもう一度電話してもらった。あい子が結論を出した。

「13日の工程会議に掛け、最短の手術日を設定して頂く。がん研 有明病院で手術は受けないが、セカンド・オピニオンは聞きに行く」というものである。

「がん研の意見を是非私にも教えて下さい」というA先生の言葉だったようである。

昨日、10月6日、東京大学宇宙線研究所々長・梶田隆章教授、ノーベル物理学賞を受賞

本日、10月7日、第3次安倍改造内閣発足

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。