桃子の春

ハートマーケットは広い敷地にショッピングモールを併設し全国展開を図る勢いのある企業だった。

モール内には和食レストランや上海料理の店などの飲食店をはじめ、ドラッグストアーやクリーニング店など、いかにも主婦が喜びそうな店が並んでいた。

歯科医院・税理士事務所も開業に備え、内装工事や備品の整理など大忙しの様子だった。綿部歯科医院では歯科衛生士と歯科助手の募集をしていたようだが、チラシが剥がされているのを見ると既にスタッフは見つかったようだ。

しかし、新村税理士事務所では開業を目前にして、所長が求めている人材がなかなか見つからないで困っていた。これまで、何人かの応募はあったが「帯に短かし」で採用まで行かなかったようだ。

新村税理士事務所に採用されれば、自宅に近いことで伊佐治も安心するだろうし、桃子にとっても同じ気持ちだった。所長との面接では以前の勤務先での仕事内容や退職した理由などが聞かれた。

桃子の人となりにはなんら問題が無く、むしろ、新村所長を喜ばせたのは桃子の持っている資格や経験が正に事務所として望んでいるものだったからだ。

所長から桃子に採用の連絡があったのは同じ日の午後のことだった。即戦力として期待されての採用だった。

「早速、週明けからでも来社して頂けますか。詳細はその時にお話しさせて頂きます」

と所長は素晴らしい人材に出会えたことで声を震わせているようだった。初日の勤務を終え、自宅に帰った桃子は多少の疲労感があったが久しぶりに充実感もあった。

「お父さん、遅くなったね。今、急いで夕飯作るから」

と、エプロンを着けながら、ハートマーケット北園店で買ってきた食材をテーブルに並べていた。

「ああ、気にするな。なんか美味しい料理を作ってくれれば、それで充分だ」

平然と言う父に、(どうして、「お疲れさま」の一言が言えないのかな)桃子は、大きくため息をついた。

自分の幸せを後回しに考えていた桃子に、お見合い写真を持ってきたのは叔母の朋子だった。桃子二四才の時だった。これまでもなん度かお見合いの話はあったのだが、一人残す父のことを考えると一歩踏み出す決心がつかないでいた。

「男やもめに(うじ)が湧く」という言葉は、まさに父のような人に向けた言葉だろう。桃子には台所に立つ姿や洗濯・掃除をしている父の姿は全く想像できなかった。

ましてや、あの父と同居してくれる人などいるはずがないと思われ、結婚は自分に縁がないことと半ば諦めていた。

そんな時、叔母の朋子からお見合いの写真が届けられた。

「井崎京平さん。年齢は三一才で公務員。しかも、京平さんはお父さんと一緒に住んでも構わないって。むしろ、一緒に住みたいとも言ってくれているのよ。ただ、婿入りではないので、井崎の姓のままでの同居を望んでいるの。良いわよね」

と、写真と一緒に履歴書が手渡された。

五月初め、空は抜けるように青く頬を優しく撫でる風がとても清々しく感じられた。この日、叔母朋子が今日の為にとスカイツリーを目の前にするレストランを予約してくれていた。

京平と桃子はお互いの写真や履歴書は前もって渡され穴が開くほど見ており、朋子から耳にタコができるぐらい話も聞いていた。