左右の第2肋骨から第10肋骨まで切開がすんで、まさに肋骨を骨組みとしたザルのようになった。こわごわと持ち上げると、僕の視野にはまず左右の肺が飛び込んで来た。

そのとき、玉手箱の煙が上がったように錯覚した。不思議な光景だ、と思った。肋骨という、あるべきものがない光景は、殺風景な寒々したもの、というのが率直な印象だった。

というより、はじめて人体の内部臓器に接して少し気が動転していたのだろう。落ち着いて観察を始めると、まず肺が黒い事に気付いた。

よく見ると、全体が黒いというより黒い小さな粒々が一杯散在していた。タバコだ。この遺体は女性だが、生前かなりの量の喫煙者だったに違いない。

肺の実質は煉瓦色と言えるものだった。ゴムのような弾力を持っている感じだった。テキストには前胸壁を取り去った時に現れるもの、と図が示してあって、何故か括弧して20才の女性と断りがある。

この年齢で、献体を決意するのは並みでない勇気が必要だっただろう、そう決意させる経緯は何だったのだろう、家族はいたのだろうか、など想像が駆け巡った。

胸腺は若者では暗い灰紫色をした左右の2葉が区別できるが、老人や成人では脂肪の塊と変化しているという。自分たちの受け持ちのライヘは、明らかに老人で、いろいろ探したが、それらしいものを見つける事はおろか、痕跡と思える脂肪の塊さえ見つける事ができなかった。

たまたま通りかかった富田助手に、何も見つかりませんでしたと伝えると、年寄りはそんなもんさ、と当然の事のように言い放って去って行った。

その背中を見送った後、田上が誰にともなく、声を投げかけた。次は心膜だな。田上は心臓や循環器系に興味があるのだろうか、と僕は感じた。

心臓を包んでいる心膜を観察する。心膜は、線維性心膜と漿液性心膜が密着して一枚の膜のように構成されている。しかし、今は左右の胸膜の間から、わずかに見えているに過ぎない。今は、不透明な白色の心膜の向こうにあって見えない。

この辺りの肺や心臓を包む膜は、解剖学的には細かく区別されているが、少しずつわかってくるだろう。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『正統解剖』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。