流れるような線と黒白の対比が鮮やかで、微かな退廃が匂う。以前十九世紀の挿絵画家ビアズリーの絵を見たとき、「あの本の絵だ」と思ったのだが、平澤文吉という日本人画家の絵だった。

もしかすると原作の挿絵をビアズリーが描いていて、平澤文吉はそれを模倣したのかもしれない。

「……けれども兎がほんとにチヨツキのポケツトから、懐中時計をとりだして、急いで走つていきましたとき、思はずアリスは飛び起きました。」

冒頭に近いこの部分はおそらく芥川龍之介の翻訳である。菊池寛の前書きに

「この物語は芥川龍之介の担任ママのもので、生前多少手をつけてくれたものを僕が後を引き受けて完成しました。故人の記念のため、これと『ピーターパン』とは共訳ということにしておきました。」

とある。芥川龍之介が自裁したのは昭和二年、『小学生全集』が世に出た年である。

菊池寛は、「少年時代の読み物はその人の一生を支配する。」と述べ(『小学童話読本』あとがき)、

「子供たちに理想の読み物を与へるために芥川龍之介の助けを借り、興文社を版元とし、文藝春秋社の協力を得て発刊する。」と『小学生全集』が世に出た経緯を書いている。

また

「童話が文学の一形式となつて以来、多くの作家は童話の創作を試みた。文芸家の童話とは、その気品、その筆致に於いて、普通の童話よりも豊かな芸術味を湛へてゐることを信じてゐる」

とも述べた(『日本文藝童話集上』)。

その言葉どおり志賀直哉、田山花袋、豊島与志雄、宇野浩二、与謝野晶子など、錚々たる作家が優しい語り口で子供のために腕を振るっている。

童話はりっぱな文芸として重んじられていたのだ。この全集が出た頃の昭和二年は日本にとって、ほとんど最後の、文化薫る穏やかな年だった。

昭和五年、時の首相浜口雄幸が右翼の青年に襲われ、翌年にその怪我がもとで亡くなった。

以後日本はきな臭い方向に向かう。