推論規則

ⒶならばⒷで、かつ、ⒷならばⒸであれば、ⒶならばⒸが成り立つ。これは、三段論法という推論規則で、何らかの前提から、論理的に結論を出そうとする時に使うルールだ。では、三段論法は正しいか。

フェイントで申し訳ないが、正しいかどうかを問うという設問自体が無意味だ。

正しいか否かは、それを判別するルールがあって初めて決定可能だが、三段論法自体がルールである。三段論法は生きていくのに有効か?という設問にしないと意味が無い。

練習すれば(Ⓐ)自転車に乗れるようになる(Ⓑ)。自転車に乗れるようになれば(Ⓑ)友達と一緒に遠くまで遊びに行ける(Ⓒ)。だから一生懸命練習して(Ⓐ)、友達と一緒に自転車で遠くまで遊びに行ったりして(Ⓒ)新たな世界を切り拓く。リスクを回避し心地良く生きて行くうえで、人間に編み込まれた三段論法は、有効。

解決型思考

何か問題がある場合に、その解決に向けて自分ができることは何か、を考え行動することを、解決型思考と呼ぶことにする。一方、自分では積極的に解決を図らず、被害者意識を持ち、他人を非難するのを非難型思考とする。これらを、快不快の視点で見てみる。

問題が解決すれば、不快レベルは下がる。その下げ幅は、その解決が、解決型思考によるのか非難型思考かには関係無い。

ただし、解決型思考で解決した人の場合、自分が解決に加わったことで、他人から認められ褒められる(快)し、自分の能力を使った達成感が湧く(快)。他人を非難しないので、他人が不快になることはない。一方、非難型思考で解決が転がり込んで来た人の場合、自分は解決に加わっているわけではないので、他人から褒められることは無いが、非難に自分の能力を使うことが解決に貢献したはずという若干の達成感(小さい快)が湧く可能性はある。非難された人はもちろん気持ちがいいわけ無い(不快)。

次に、問題が解決しなかった場合。解決型思考で取り組んだが問題が解決しなかった人(検討した結果、あまりにも負荷がかかるので諦めた人も含む)の場合、これはなかなか解決の難しい問題なのだということを納得すると、問題は解決しなくても、不快を受け入れる気持ちが湧く(不快の軽減)。一方、非難型思考の人の場合、問題は解決しないので、不快は軽減せず、また非難された方は気分が悪い(不快)。

つまり、解決型思考を採れば(非難型思考に比べて)、問題が解決すれば大きな快が得られるし、もし問題が解決しなくても、不快レベルは下がる。

なお、他人を非難しないで、他人に解決を要求するのは、要求する内容が建設的であれば、非難型思考で無いことは言うまでもない。

おやつが無いのを認識した時「何でおやつが無いんだよ。」と言うのが非難型思考、「おやつ買いに行ってもいいかな。」や「おやつ買いに行ってきたいんだけど、今手が離せないんだ、買ってきてもらえると嬉しいな。」が解決型思考。