難升米について ─日韓交流史上のキイ・マン─(古田武彦)

日韓交流史上、重要なテーマに遭遇した。これを簡明に報告し、関係する諸賢の考察と批判にきょうしたい。

文献は、三国志の魏志倭人伝。人物は、難升米である。難升米は倭国の女王俾(卑)弥呼(※注1)の使者として魏の都洛陽へ派遣された。景初二年(※注2)(二三八)六月である。次使は都市牛利である。この難升米が、姓は難氏、名は升米(「しめ」か)ではないか、という疑問が生まれたのである。

発端は、次使の都市牛利から生じた。現代の日本の姓に「都市」があり、「といち」と読まれている。福岡県の福岡市・太宰府市・筑紫野市に居住し、その本拠は長崎県松浦郡鷹島たかしまにあり、黑くろ図ずに墓地がある。明治初年近くまでは屋敷もそこにあったという(現在も数軒あり)。古来の「松浦水軍」の拠点である。

もしこの「都市」氏が、倭人伝中の都市と同一であるとすれば、鋭い問題提起が必然とならざるを得ない。なぜなら「と」は"神殿の戸口"などの意であろうけれど、これは「おん」である。「いち」は問題なく"市"であろう。倭人伝にも、その存在が記せられている。しかし、こちらは「くん」(日本語読み)である。倭人伝においてすでに「音訓、両用」の用法が存在していたことになるからである。

今は、この問題はおこう。別の機会に詳述する。問題は、「難升米」への波及効果だ。

次使の「都市牛利」が「姓と名」をもつとすれば、代表者の「難升米」が「名前だけ」の「なしめ」などであるはずはない。当然「姓と名」でなければならぬ(「都市牛利」は二回目の出現では「牛利」だけであり、四字とも「名」ではないことは、すでに示唆されていた)。すなわち「難」(姓)(中国・韓国語)と「升米」(名)(日本語)ではないか。そういう問題に当面せざるを得ないこととなったのである。