これは、古くから朝鮮半島の民族と、満州(中国)の民族は陸続きであり、双方向で頻繁に出入りをしていましたが、満州側は常に属国の民という形で朝鮮側を見下すことが多く、半島内に入り商いをする商人ですらが見せる、不遜な態度に朝鮮側が不快感を持っていたからでした。

日本が満州国建国でそんな連中の上に立ったという、驚きと喜びが半島内に広がり、この思わぬ副産物を好機と捉えたようです。朝鮮総督府は命令を受け、根回し、準備作業に入っていたものの、昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃の一報が入り、事情を知る人たちは困惑したそうです。

この時点では、大陸側の拠点を東南アジア方面の沿岸部に新設し、伸ばした鉄道で繋いでいきながらも、水面下で日本軍が送った工作員による独立運動勢力への戦闘訓練や、武器の提供を行い、自ら矢面に立たずに、植民地宗主国を揺さぶっていくという計画の初期段階でした。

この計画の中心となる一大鉄道計画が、現在「弾丸列車計画」という形で知られているものです。

東京から下関を、それまでの本土の狭軌規格より大きい大陸鉄道規格で繋ぎ、東京から徴兵された兵士や武器弾薬を、大量かつ高速で運び、台船に荷物の積み替えなしに貨車ごと乗せ、朝鮮半島の釜山に揚げて、大陸の満州方面だけではなく、東南アジアよりに新設する予定の拠点にも運ぼうというものでした。

この計画に付随していたものが、現代でも時折取り上げられることのある、「日韓トンネル」の原型である、下関と釜山を海底トンネルで繋ぐ構想でした。

しかし、当時は、資金や技術の面から夢物語と捉えられていて、当面は、関釜連絡船と同じく船での輸送と、計画を聞いていた現場の鉄道官吏たちは受け止めていたそうです。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『受け継がれし日韓史の真実 ─朝鮮引揚者の記録と記憶』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。