彼は下谷区中清水町(現台東区)の環と藤井の新居へ立寄ることもあり、訝る藤井に同居の母登波は「あれは従兄ですよ」と紹介していた。温厚な藤井は政太郎より三つ年上であり同じ医学を志す者として彼を優遇する。

藤井と環の離婚が決まると政太郎は環に手紙を書き、エリート青年特有な筆致で意中の思いを書き記した。

「あゝ玉杯」の楠正一の手紙も思い出されるが、政太郎の手紙は、環の回想によると薄気味悪いほどのもので、彼がこんなにも自分のことを思っていてくれたと思うと、びっくりしたり気の毒になったり複雑な気持になったという。

男心にあたりさわりのないよう断りを入れるテクニックは環の身についた自然の才能であったから、それ相応の返事を出しておいた。

登波と環の女世帯にその後政太郎が足を運ぶようになるが、離婚を新聞で書きたてられたあとでもあり、環の世評はあまり芳しいものではなく、また新聞記者も未だ環の一挙一動を興味深く監視していた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。