「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。
最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。
本連載では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の生涯を、音楽専門家が解説していきます。
音楽評論家・田辺久之氏の著書『音楽のジャポニズム!~考証・三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環を徹底解説! 本記事では三浦環の音楽書『世界のオペラ』のゴースト・ライターである千葉秀甫、そして三浦環のよき理解者であった三浦政太郎について解説していきます。
彼が十八歳で一高に入学した明治三十年に柴田環は虎の門の東京女学館に入学し、一高三年の時、環は東京音楽学校に入学して通学の途次自転車美人として世間の注目するところであった。
政太郎と彼女は遠縁の間柄にあり、彼は上京後桜川町の柴田熊太郎の家を訪ねている。熊太郎の家は書生の出入りも多く屋敷も広く賑やかであったので政太郎も自然に同郷の柴田家の人達と親しくなった。
政太郎が年頃の環を自身の相手として意識したのは一高の頃だったようだ。環の語るところによると彼女と藤井善一との内祝言を知り悲観のあまり自殺を考えたという。
当時は一高生藤村操の日光華厳の滝での投身自殺(明治三十六年五月二十三日)の事件に代表されるように青年たちの厭世思想の流行は哲学青年の特権のような趣を呈した。
政太郎は生来ひよわな体質でその性格は内向的であった。彼のエリート校での抜群の成績は常に両親や親戚のもとで話題となった。
彼の失恋は一層彼を陰気にしたが、青年特有の気むずかしさとて周囲の者は別に意に介さなかった。環はこの無口な青年の気持の中に自分への恋心があろうなどと思いもしなかった。
環と藤井との離婚を知ったのは政太郎が東京帝国大学を卒業し、同大学付属医院の副手に就任して二年目の春であった。
(45)生田葵「三浦環女史の愛人─ゼネバで行路病者として果てた狂恋の彼」(婦人公論第十五巻第二号)昭和五年一月三三~五○ページ
(46)一九一四年三月十六日にフランス蔵相ジョセフ・カイヨー(一八六三〜一九四四)の夫人が、夫カイヨーの攻撃をし退陣キャンペーンを展開した「フィガロ」紙の編集長G・カルメットに会見を求め口論の末射殺した事件。
(47)澤田助太郎著『ロダンと花子』一一三〜一一四ページ、一三一ページ(中日出版本社平成六年九月刊)島崎藤村が在仏中、女優花子一座とその活動写真撮影の脚本を書いた千葉秋圃に逢ったこと。また花子がベルリンの駅に一年前に預けたロダンの作品入りトランクが既に処分されてしまったというので千葉秀甫に掛け合って買ういきさつが記されている。
(48)前掲誌注(45)四七ページ一九一四年七月べルリンに到着した三浦夫妻の住居を、秀甫が生田葵に執拗に尋ねた時の状況を「四十五、六歳の人の為すべき挙動かと思へもした……」と記しており、これが彼の年齢を知る唯一の手がかりである。なお武者小路公共は前掲書注(41)二一四ページで秀甫(本文では千葉秀甫をC先生と表記)はスイス・べルンで死去としている。
(49)窪川雄介、福島敬一『茶の大事典』三八五〜三八六ページ(静岡お茶の大事典刊行会平成三年刊)〈三浦政太郎食品化学者・医学博士の項〉および三浦孝一氏(平成六年九月六日)取材による。