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高野いじり 二〇一八年十月

同行二人どうぎょうににん。お遍路さんの菅笠や白い道中衣に書いてあるのを見たことがある人もいると思う。

巡礼中、お大師さん(空海)が傍にいて、見守ってくださるとの意味がある。御存知だろうか(御存知でしたら失礼)。

今回、秋(十月)の高野山行き(なんたって日帰り)にあたっては、交通費や食費、職場への土産物代まで、女房が出してくれ、僕を見守ってくれるので、女房との同行二人だ。

最寄り駅を午前五時四十五分の始発に乗る。早起きが辛い。しかしである。四国八十八箇所、苦難の巡礼をやり遂げたお遍路さんの終着駅である高野山へ行くからには、これくらいのプチ苦行は当然だろう。

午前八時過ぎに大阪に到着。難波で南海電車に乗り換えて、一路高野山へ。難波を出て、三十分。電車は山懐に飲み込まれる。勾配が次第にきつくなってきた。

レールを軋ませながら、電車は元気に登っていく。眼下には急峻な斜面。金剛駅に停車。ここは、楠木正成が、千早城という山城に立て籠り、千人足らずの兵で、数十倍もの鎌倉幕府軍を相手に百日間も戦い抜いた古戦場である。

正成が、神算鬼謀をめぐらし、幕府軍をさんざんに翻弄する戦いは、太平記の中でも僕の大好きな血沸き肉躍る場面である。女房に正成の戦いぶりを講談師よろしく一席披露するが、見事な無関心ぶり。

女房は、何故大学受験の際、社会科選択科目を日本史にしなかったのかと、僕は今更ながら悔やんだ。

金剛駅からさらに三十分、九度山駅に停車。関ケ原の戦いで敗れた真田幸村親子が蟄居ちっきょし、捲土重来けんどちょうらいを期していたのはここかと、幸村の心情を思い遣った。

電車は、鎌倉時代から安土桃山時代まで、日本史の期末試験の出題範囲を走り抜けていく。九度山駅を通過すると、次から次へとトンネルが現れ、それを抜けると次から次へと秘境駅が顔を出す。

デジャヴがリフレインする。秘境駅で、電車のドアが開く。ホームの黄色い線の内側一面に生い茂った雑草。日の光を浴びて黄緑色に輝く。あぁ、疲れ目が癒される。

「一番線、電車が入ります。ホーム、黄色い線の内側の雑草の上でお待ちください。本日、お足元、マムシを大変踏み易くなっております。ご注意ください。また、駅や構内で不審なマムシに気付かれましたら、触らずに乗務員または駅係員までお知らせください」

という駅アナウンスが聞こえたような、聞こえなかったような。