第二章 破 絶歌

キリストの福音vs進化論の思想

逆説的に言えばこのような「噓」が人間の手によって書けるはずはないということです。だからこそ改めて進化論という似非科学の正体と、その目的を考えてみなければなりません。それはこの世を取るに足りない胡蝶の夢として人間に認識させ、霊的再教育を施し堕落を決定的なものとするためです。

生きることの「意味」と死ぬことの「理由」さえ消去できれば、神への思慕を人間自らが断ち切ることは造作もないからです。進化論という騙し事の哲学が一九世紀に出現するまでの「科学」の立場というものは、創造の素晴らしさを解明して人間を教え導き、イエスはキリストであると告白して神の御名が称えられるためのものでした。科学とはそのための知識という「手段」であり、科学の存在理由はそこにあったのです。

ところが進化論の台頭によって、創造主をお払い箱にしたのです。行き場を失った科学という「知識」は自己目的化し、暴走し始めたというわけです。とめどなく肥大化し制御不能に陥った科学を真理であると勘違いし、人間はこれに仕え始めたというわけです。これが聖書の言う偶像礼拝であり、人間の堕落です。「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)というのが聖書の約束です。

しかし今や人間は科学の奴隷なのです。ここにおいて人間は最悪の自己矛盾を出来させてしまいました。手段を目的としたからです。

己が知識によって自分を礼拝していることにさえ、その自覚がありません。その結果が高慢と自惚れと「死」です。神なき知識は人間を高ぶらせずにはおれません。そのためにこそ「敵」は命を物に置き換えさせ、心や精神の働きを物質代謝やその運動として説明し、全てを化学反応や物理現象に還元させようとするのです。

さらには必然を偶然と偽って解釈させ、目的と摂理を手段やプロセスとしての気まぐれな確率的副産物として、「時間」というものの中に押し込んだのです。そのようにして人間自身の自縄自縛的マインド・コントロールによってこの世界を再認識させようとする悪巧みが、進化論というグノーシス哲学の正体です。

即ち人間をしてもう一度背教させ、創造主である神を完全廃棄させようとする悪魔の最終戦略が進化論なのです。二回目の十字架は絶対にあり得ないことを、知識の極みにまで行ったことがある悪魔は知っているからです(エゼキエル28:12~19 )。

進化論は単なる唯物論ですが、只の唯物論ではありません。科学に擬態した進化論こそが、悪魔とその手下どもが幸う「宗教」だからです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。