祖母千代子も、私が小学一年生まで健在(その後体調を崩し、小学4年生のときに亡くなり、祖母の面倒を見ていた伯母千枝子と、一人暮らしは心細いだろうと同居することになりました)でしたので、当時の話を聞く機会にも恵まれましたが、近隣の朝鮮人も親切で、京城に入る前に満州側で想像していたような、独立運動が荒れ狂うようなものは一切なかったと話していました。

だからこそ、大正10年(1921年)に長女を生んだあとで、二人目を出産しているのです。

近年、朝鮮京城で暮らしていた日本人の集まりにも顔を出さず、当時の生活実態を聴き取り調査もしなかった学者やジャーナリストたちが、関東大震災時に日本人が朝鮮人を大量虐殺したなどと言い出したうえ、次第に被害者数を増加させていますが、そんな大規模な虐殺話などはありませんでした。

京城駅建設を含めて、さまざまな施設の工事作業には、多くの朝鮮人労働者が雇われており、そのような話があれば、再び京城に緊張が走ったはずですが、まったく聞いたこともないものです。

また、朝鮮側からは、東京の復興作業に朝鮮人労働者の応援を入れたり、支援米の緊急移入を行っています。その後も、朝鮮人の出稼ぎ労働者や留学生は、数を増していっているのですから、大量虐殺などがあれば、送り出した朝鮮人家族が黙っているはずもなく、隠せるはずはありませんでした。

予期せぬ関東大震災を挟みながらも、朝鮮半島京城の主要な施設は無事完成しましたが、本来の目的である韓国皇帝の誕生は、大東亜戦争(太平洋戦争)終了まで行われることはありませんでした。

「王様(皇帝)にするすると言っておいて、あんなこと(真珠湾攻撃)をしやがって。あれのおかげですべてが水の泡になった。挙句に戦争に負けたら、最後まで李王垠殿下家族の面倒を看ずにほっぽり出しやがった。一般人より生活費が掛かるとは言っても、親子数人の費用位は捻出できなかったわけでもあるまいに」

戦後、日本に引揚げてから、祖父の将棋の相手をしながら、当時のさまざまな話を家族のなかで最も詳しく聞いていた父は、この話をするときはいつも不機嫌な物言いになり、

「岸信介が巣鴨(刑務所)から戻ってからやっと、堤康次郎(西武グループ創始者)にどうかここも一つお願いしたいと口を利いてくれて、赤坂の李王家の屋敷(買取ののちに赤坂プリンスホテルとして開業)を買い取ってもらい、わずかでも家族に現金を渡してくれたからいいものを、みっともない真似をしやがって」

と、戦勝国アメリカに睨まれているとはいえ、戦後の日本政府の対応の悪さを怒っていました。

父は、平成23年(2011年)に行われた最後の柳会(京城元町小学校第35期生同期会)の集まりまで、李王垠殿下が皇帝候補のまま終戦を迎えたと思っていましたので、このように、私が子供のころから聞いていたものも、その前提で話してくれたものでした。

しかし、私も同席した柳会の最後の集まりで、意外な話を聞くことになったのでした。