高校生と小学生の2人を留守番させて、子供たち3人と車で買い物に行った帰りでした。毎日行くスーパーマーケットの道、家までもうすぐという距離に差しかかった時のこと、突然、スポーツカーが私たちの方に向かってきたのです。フリーウェイから降りてきた車でした。私の車は青信号を通り過ぎる直前で、スポーツカーがかなりのスピードで接触し、私の車の右後方部に衝突しました。その衝撃と共に、私の車はスピンを繰り返したのです。

私の大きなGMのバンは、対向車線にはみ出して路側帯にぶつかり、元の車線の信号機に激突して止まりました。正確には、信号機のボックスに衝突しました。道路の真ん中に止まっていた相手の車は、ワーゲン社のピカピカのスポーツカーでした。エアバッグが飛び出した側で、白人の運転手が携帯電話で話をしています。幸いにも、同乗していた子供も私も、相手の運転手も奇跡的にかすり傷程度で、全員に怪我はありませんでした。

相手の運転手が連絡したので、間もなく警察がパトカーで駆けつけ、私と相手にお互いが近寄らないよう注意し、全ての処理はそれぞれの保険会社に任せるように告げて交通整理を始めました。

しばらくすると一台の車から女性が降りてきて、何やら警察官に話をしています。

私の前に立つと、「この人の車が信号を無視していました」と告げたのです。

彼女は車でやってきた目撃者でした。気が動転していたので「通い慣れた道だから、信号無視はしていない」と反論しようにも、英語で反論できません。目撃者の証言によって、とうとう私の過失になってしまったのです。

それから私の事故車は、買い物した品物を積んだまま、レッカー車で別の場所に運ばれていきました。フロントガラスと、前方両サイドのドアガラスが粉々に割れてしまい、ドアは外れ、タイヤは前輪がパンクしています。この状態で、誰にも怪我がなかったのは奇跡でした。

パトカーの中の警察官がタクシーを呼んでくれましたが、私は小学生と中学生の2人の子供をすぐ近くの自宅まで走って帰らせ、留守番をしている子供たちに知らせてもらうようにしました。私と5歳の子供は、雨の中を傘もなく突っ立ったまま、パトカーの横で一時間以上タクシーを待ちました。

到着したタクシーを見ると、警察官は「帰ったら自分で保険会社に連絡して、事故の説明をしてください。そして、簡易裁判所でお金を支払ってください」と告げ、簡易裁判所に提出する切符を私に渡すと去っていきました。

私は自宅に戻るや否や、保険会社に電話しました。

相手の顔が見えない電話で、必死に事故の状況を英語で説明すると、保険会社から「相手の運転手や保険会社からの電話には出ないように」と言われました。

後日、ほかの車を運転して簡易裁判所まで切符を持っていくと、列をつくっている人たちがいます。そのほとんどはメキシコ人、インド人、我々のようなアジア人で、白人は見かけませんでした。罰金を支払うと、受験票が渡されました。受験票には事故を起こした人が行く学校の住所が書かれていて、その学校で試験を受けることになるのです。

後日、簡易裁判所でもらった学校の場所が違っていて、私と同じ状況のインド人の男性の車に乗って試験場に行くことになりました。見知らぬ人と2人という不安はありましたが、選択はこれしかなく、その方はシリコンバレーで有名な会社の方だったので一緒に行くことにしました。

2人だけの車中で、なんとか共通の話題を見つけようとしても、拙い英語力のため話は尽きてしまいました。そこで私は、その沈黙を埋めようと歌を唄うことにしたのです。

坂本九さんの『上を向いて歩こう』――SUKIYAKI songでした。「異国の地で落ち込んじゃいられない」という意味で、この歌を唄いました。話題は日本のことになり、私は着物の話と、「日本の文化を広めるために、これから世界に行く」という話をしていました。

試験場のアクシデントはありましたが、見知らぬインド人のおかげで、無事、試験に合格。

壊してしまった信号機の弁償もCupertino Cityに払い、数日前の買い物がそのまま載った事故車を引き取りに行き、全ての事故処理が完了しました。

単身の渡米とは違い、常に子供のことを考えながら仕事もしていたアメリカ生活は、さまざまな困難の連続でした。中でも、アメリカでの交通事故にはさすがに参りました。

しかし、誰にも甘えることができない状況だったからこそ、成長できたのだと思います。

何よりも、子供たちが大いに成長できましたし。
 

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『きょうは着物にウエスタンブーツ履いて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。