第二章 破 絶歌

なぜ人を殺してはいけないのか?

河出書房新社『文藝』(一九九八年夏号)の緊急アンケートの特集が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」でした。もしも十四歳の中学生に聞かれたらあなたは何と答えますか、です。滅多に聞かれない質問ですが、一応質問という体裁にはなっています。無視するわけにもいかないとすれば、何と答えればいいのでしょうか。

それに対する六九名の回答者は、まずは世に言うところの有識者、それから小説家、哲学者、心理学者、詩人、禅寺の僧侶、女占い師、パリ人肉食事件の「佐川一政」まで多種多様です。しかし答えの根拠を示した者は一人もおりません。

答えは各人各様の感想であり、主観的な反対意見にすぎないのです。「殺してはならない」(出エジプト20:13)と神が命じられた、とその根拠を口にした者は一人もいなかったのです。

個人的感想を口にする前に、本当は何を知りたいのか理解しておかねばなりません。「殺人とはなんぞや?」という類いの哲学的命題ではないからです。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問の意味は、文脈からも明らかなように、殺人禁止の「根拠」はどこにあるかを問うているだけなのです。「人を殺してもいい!」と思ってしまった人間に対し、どんなに主観的な反対意見を述べたところでどうすることもできません。バカげた質問を撤回させることはできません。

しかしどういうわけか、「自分は殺されたくないので、他人を殺してはならない」という答えが圧倒的です。この答え方は正しいのでしょうか。人殺しの抑止力に成り得るでしょうか。

かつてキリストは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)と教えられました。当時の律法学者や宗教家たちも聖書の教えを人間の解釈によって改竄し、「何事でも、自分にしてもらいたくないことは、ほかの人にもそのようにしてはならない」と否定文に言い換えていたからです。ユダヤ教の律法注解書タルムードにおいてさえも、そうなのです。

ちなみに論語における黄金律も同じです。「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」です。ですから孔子とキリストを同列に論ずることはできません。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。