第二章 破 絶歌

「魔界の住人、少年A 酒鬼薔薇 聖斗」を聖書から糺す

このような思想形成の下には母親の影響があったと検事調書に記されています。少年A曰く「僕は小さい頃、母親に『運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ』と言われました。それで僕は、周りの人間が野菜に見えてしまうのです」。これは淳君の口に咥えさせた「汚い野菜ども」と符合します。彼は母親に言われたことを文字通りに信じたのです。

今度はそれを飛躍させ、自分以外の人間は野菜だから切っても潰してもいいという理屈に仕上げたのです。思考のあり方は哀れなほどに幼児的です。譬え話にすぎない人間観を鵜呑みにし、自分の掟にまでしたからです。しかし冷静に考えてみれば、彼の人間観は歪んでいると言い切れるでしょうか。

人間とは進化の果ての生き物にすぎないと教えるのが日本の義務教育であるとすれば、人間が人間である理由は、どこにもありません。彼は教えられた言葉を疑いもせず文字通りに信じて、実行したまでのことです。彼は教えられた通りに、正確に間違ってしまったのです。

著者はあとがきにおいてこうも述べています。曰く「事件発生直後から開始した取材の報告として、核心にまで迫りきれなかった歯がゆさと悔恨とが、いつまでも頭にこびりついて離れなかった。少年Aについては、動物園の檻に閉じ込めて珍しいものでも眺めるような立場を私たちはとるべきではないだろう。

彼のような精神の歪みは、いつでもだれにでも起こりうる『地続きの経験』として記憶されるべきだと思う。(中略)この世紀末の華やいだ空気を生きてきた私たちに彼は不意に『実存の暗い深淵』をのぞき込ませ、私たちを発情させた。

ほんとうはだれもが知っていたのかもしれない。なにを? このまま行けばやがてこのような犯罪が起きるということを」。

この事件の本質は「少年A」一人のものではなく、全ての人間に介在する普遍的「地続きの経験」であるということを、ジャーナリストとして本能的に感じとったのです。その発生源が人間存在の根源に潜む「実存の暗い深淵」であるところまでは突き止めました。

しかし著者自身の言葉である「実存の暗い深淵」の正体を捉え切れず、哲学的観念用語の世界から一歩も踏み出せなかったのです。その限界と虚しさの体験が、「核心にまで、迫りきれなかった歯がゆさと悔恨とが、いつまでも頭にこびりついて離れなかった」という告白です。

しかしこれ以上追及できなかったのは、著者の能力不足ではありません。これは最早ジャーナリストの能力云々という問題ではありません。それは「人間とは何か?」という命題に直結する問いそのものであり、己が存在の場である「実存の暗い深淵」とは何かという問題だからです。

このような問いに対する答えは既に人間自身の言葉にはなく、経験や自己に内在する事柄から語れるようなものではありません。したがって人間が同じ人間にいくら取材したところで、得られる答えの中に著者が追及しようとするものが見いだし得ないのは当然です。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。