「そうだな。お前の気持ちもよく分かるし、一年に一回くらい親戚で集まってもいいかもしれんな」

「よーし、それならさ、俺もう会の名前考えてあるんだ」

「なんて言うんだ」

「親和会、親しい親戚が集まっていろんなことを話すんだよ」

「じゃあ、みんなが賛成してくれたら作ろうか」

どれくらいの本気度だったか読み取れなかったが、父を含め反対する者はいなかった。

これで少しでもみんなの傍にいることができるし、母も寂しくないような気がした。しかし残念なことに、その後一回もその会は開かれなかった。それぞれの家族が帰り、その夜から寂しさが増していった。

三週間ほどして夜になると、父が仏壇の前に座りお経を読み始めた。普段から話す方ではない父が、母の死後余計に喋らなくなった。

母が亡くなる四カ月ほど前、狭い廊下と畳の上を思い切り追いかけられた。普段は叱ることはあまりなかったが、そのときは本気で怒っていた。母の言うことをどうしてもきかなかったし、気に障ることを言ったからだ。二分以上追いかけていた母は廊下で四つん這いになり倒れ込んだ。はあはあと苦しそうに呼吸する音が尋常でないことを気づかせてくれた。それから二週間後に近くの病院に入院した。長い間は留まることなく家に戻ってきたが、しばらくして体調を崩し、また入院した。母の死はこの延長線上にあった。

数年前から腎臓が悪く、体調を崩しがちの年が多かった。膝を伸ばしてスネを指で押すと、そのまま指の跡が残っていた。白くて細い病的な脚が余計不健康さを滲ませていた。

入院生活は続き、日曜日にはいつものように聡子は病室に笑顔を運んでくれていた。

高三の春、聡子と初めて会った。後輩の一人に、

「アルペンのうまい選手が入学したので、なんとか部員になるよう勧誘してくれませんか」

と頼まれ、一学期が始まって数週間が過ぎた放課後、体育館を出たところの廊下で待ち合わせた。

「商業科の大谷聡子さんです。卓球もやるんですが、スキーもうまいんです」

「そんなことはないです」

少し笑ったような顔で静かに言葉が返ってきた。結局断られ、数分の話し合いだった。

中肉中背で物静かな話し方をする女の子であった。時々見せる笑顔はどちらかというと力なく、表情も乏しい印象だった。その後、家に帰ってからもその子の顔が浮かんでくる日が増えていった。当時同じ学年の女生徒と付き合っていたが、二人で会って話すことや遊びに出かけることは殆どなく、形だけの付き合いのようでもあり先への繋がりが望めそうになかった。

どこか後ろめたさはあったが、友人にスキー部に誘った新入生のことを話し、その子を知る同級生にも胸の内を話した。その甲斐あってかその頃クラスでも何組かではやっていた日記の交換から付き合いが始まった。一週間に一度くらいのやりとりでとりとめのない内容の日記を交換することが多かった。

一年近くが過ぎた卒業式の日、謝恩会などの催し物が終わりに近い頃、決めていた時刻に待ち合わせていた玄関で顔を合わせた。殆ど喋ることもなく、歩いていると街のはずれにある火葬場のところまで来ていた。学校から二キロもなかったが、道路の横には残雪があり、車の両輪の雪のないところを歩いたがぬかるみもあり、どうしてこの道を来たのかなと一人で思っていた。聡子は何も喋らずただついてきた。

火葬場の両開きの大きなドアの前まで来ると、その先の道路は川に繋がっているので歩くのを止めた。ドアに寄りかかるような格好で二人とも黙って空を見た。風はないようだったがときに青空が覗けるほど雲の動きは少し速かった。聡子の前に立ち、両手で肩に手をかけた。真正面から見つめ、少しずつ顔を近づけいくと無表情のまま目を閉じ、そのまま唇を合わせた。体をドアに向かって押すときつそうに少し横に振るような仕草を見せた。
 

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『季節の向こうに未知が見える』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。