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血の糸

こんな時刻である。新興住宅地はしんと静まりかえっていた。ふらふらした足取りの靴音が、コツ、コツ、コツン、コツンと辺りに響いた。この靴音を聞いていると稔は、何だか自分が情けない心持ちがした。泣きたいような気分だった。

そんな思いで歩いていたら、急に尿意を感じた。情けない気持ちと自棄やけくその気持ちで、電柱に向かって犬のように思いきり放射した。その直後、つと前方を見て、若山家の風呂場の窓に灯りが点っているのに気づいた。こんな時刻にどうしたのだろう?と、稔は、好奇の目で風呂場の様子を窺った。若山家の主人は夜勤であることを知っている。もしかすると、あの洋子という若妻が入浴しているのかもしれない。そんな興味もあってじっと風呂場を見ていた。

すると、最初は黄橙色の灯りしか見えなかった窓ガラスに、何やら黒い影が動くのが見えだした。人影であることはわかるが、ぼんやりしている。人妻の輪郭だけでもと期待したが、はっきりしない。だが、それにしても、せわしく動きすぎる。一体、何をしているのだろう? と思っていると、灯りが消えた。何だ、こんな程度か。期待が外れ、がっかりして歩き始めた時だ。風呂場のすぐ隣にある勝手口が、そろそろっと開いたのである。稔は本能的にすばやくそばに駐車してあった車の陰に身を隠した。稔と勝手口とは、幅3mくらいの川を挟み、せいぜい10mくらいか。その勝手口から、男がスーッと現れた。街灯の光は薄明りではあったが、男の姿を見るのに十分であった。

特徴のある男だった。中背のがっしりした体格、やや角張った顔、幅が広い低い鼻、夜目にもわかるギョロリとした目、頭にへばりついたような髪。稔は、その男を見て、一瞬、息を飲んだ。衝撃がドオンと心臓を打った。男は、父だったのだ。男は、街灯の光を背にして、駆けるように遠ざかって行った。後ろ姿も父だ。父に違いない。それにしても、走り去った方向が、わが家とは反対の方向だ。なぜか? 男が見えなくなった後、稔は疑問を持った。

恐る恐る家に帰ると、玄関の戸は施錠されておらず、ガラガラッと開いた。忍び足で自分の部屋に入ろうとすると、父母の寝室から声があった。

「……稔か? また今夜も遅いが、体をこわすなよ」

それは意外にも父の声だった。灯りをつけ、父と母が起きてきた。稔は、父の姿を見たが信じられなかった。若山家で父を目撃してから10分も経っていないのだ。父のパジャマ姿を無言で見つめ
た。父も無言で稔を見つめ返す。すると母が、

「稔、どうしたの? 黙ってお父さんの顔を睨むようにして……。何の不満があるのよ。お父さんとお母さんはね、稔のことが心配で、夜もろくろく眠らずに、こうしてずっとお前の帰りを待っていたのよ。それも毎日のことなのよ」

《すると、あの男は誰だったんだ?》

と稔は思った。