第二章 破 絶歌

「この世の議論家、立花 隆」を聖書から糺す

ところで「知の巨人」は何としても人間存在を偶然の産物にしたいらしく、一つの妥協案を提示し、創造論者に示談交渉を画策します。つまり、サルがシェイクスピアの作品をタイプライターで偶然に叩き出すことが不可能と証明されない限り、それと同じくらいの確率でもって、人間だって物質進化の延長線上に偶然誕生したとしても不思議ではないという屁理屈です。なんのことはない、人間が人間であることの痕跡を隠蔽したいだけなのです。

では、この件についても少し考えてみなければなりません。シェイクスピアのどの作品に対する言及なのか知る由もありませんが、話と計算を簡単にするため、サルがタイプライターを叩いて俳句ができるか否かを調べてみたいと思います。

俳句は誰でも知っているように一七音節からなる日本独自の文学です。しかも世界最小の詩文です。例えば芭蕉の句「古池や蛙飛び込む水の音」を、サルはタイプすることが可能でしょうか。

これについても更に単純化するためにカタカナのタイプライターを使わせることにします。日本語の五十音は同音もあるために現在「ン」まで含めても、実際上は四五文字です。しかし濁音や半濁音、その他、点や丸まで数えればもっと複雑になるので「フルイケヤカワストヒコムミスノオト」でも可ということにします。

サルに挑戦してもらえば、計算は次のようになるはずです。「フルイケヤ」の最初の「フ」をサルが叩く確率は、当然四五分の一です。同様に次の「ル」も四五分の一、したがって「フル」を続けてサルが叩く確率は四五分の一の二乗ですから二〇二五分の一です。では「フルイケヤ」までを計算すると四五分の一の五乗ですが、なんと一億八四五二万八一二五回もキーを叩かねばなりません。

サルが毎秒一回叩いたとしても、一分間で六〇回、一時間で三六〇〇回、一日二十四時間では八万六四〇〇回ですから一億八四五二万八一二五回を休みなく叩き続けたとしても二一三六日が必要です。この間、一秒たりとも休めません。不眠不休です。

しかし約五年十カ月を経過してもいまだに一句もできません。さらに頑張って、残りの「カワストヒコムミスノオト」まで到達するには四五分の一の一七乗の確率ですから、卓上計算機では桁不足で計算不能です。こんな調子で確率計算すればシェイクスピアの作品どころか、サルが俳句を一句叩き出すまでには進化論の学者が勝手に信じている宇宙の年齢百五十億年分を全部消費してもまだ足りません。

つまり「フルイケヤ」がサルの献身的努力によって五年十カ月後に目出たくタイプされたとしても、しかし次の「カ」が再び偶然にタイプされる可能性は一億八四五二万八一二五分の一×四五分の一ですから話にもなりません。「この世の議論家」と「この世の学者」が何を語ろうと、彼らが一縷の望みを託す儚い計算がどれほどバカげたことなのか論ずるまでもありません。

つまり偶然によって「何かができる」かもしれない確率より、偶然によっては「何もできない」確率の方が桁外れに大きいのです。宇宙全体を支配している一大法則は、偶然によって何かが生まれるかもしれない「楽観主義的進化論者御用達の法則」ではありません。全ての秩序は無秩序へという物理学の根本原理である、熱力学の第二法則です。別名、エントロピー増大の法則と呼ばれるものだからです。

立花氏の人間観は、「人間は意味を求める動物である」(二〇頁)の一言に尽きます。更に言えば、人間だけが意味を求める動物であるということを彼は知っているのです。しかしその同じ人の言説が「人間存在には特別の意味は何もない」という弁証ですから、実に不可解です。一体彼はの代弁者だったのでしょうか。

このように人間存在の本質が自己矛盾そのものであるということを幼い頃から聞かされ、躾られ、進化論教育によって刷り込まれた人間が解決策の一言もないまま放置されるとしたら、果たして「人間らしく」生きていくことは可能でしょうか。しかし彼らにとってはそれこそが愚問に聞こえるはずです。「人間らしく」という人間観こそ、彼らには無用な命題だからです。

この世の議論家に勝るソロモンは語ります。曰く「私が見いだした次のことだけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ」(伝道者の書7:29)。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(伝道者の書12:13~14)。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。