「三・一独立運動」の起きた一帯は、ちょうどそのルートの中心点にあたる京城でした。騒動を鎮圧すべく軍が出動している限り、大規模な咸鏡北道への部隊の移送が難しくなり、シベリア側の友軍と歩調を合わせての軍事行動や有事に備えての防衛強化が難しくなる、絶妙なタイミングだったのです。

「朝鮮騒擾の真相」には「三・一独立運動」の首謀者の一人である孫秉凞そんへいきについて「孫秉凞氏の自白する處(ところ)によつて観るときは、氏は寧ろ共産主義を懐抱するものであって、露國の過激派と相距る遠からずと言っても宣いぐらいである」と書いています。

日本の朝鮮半島守備の軍隊中、司令部と第20師団は京畿道京城府龍山にあり、憲兵隊本部と第19師団本部は咸鏡北道羅南にありました。

この二つに集中していたため、その内の京城で騒乱を起こされたということが、大陸側の日本人にとっては衝撃だったのです。満州方面に兵を送るためのルートは、京城から別れて、朝鮮半島もう一つの大都市平壌を通って、満州へと伸びていました。京城を中心に朝鮮半島で混乱が続けば、羅南だけではなく、満州方面に展開している日本軍の作戦行動にも支障が出てしまうからです。

軍事の上で、常に陸続きの大国ロシアを警戒していなければならない場所で、大正天皇がお見えになられた聖地という意味でも、長く留学されていた李王垠殿下をお迎えする準備の上でも、あってはならない最悪のことが起きたのです。

結果、早期治安回復の目的で、軍が出動し解決を図りましたが、朝鮮総督府長谷川好通二代目総督は辞任、三代目として「日韓併合の詔書」にも、海軍大臣として名を連ねていた斎藤實総督が就任、広がり続ける外地日本人の動揺を抑え、まだ表に出ていない「内鮮一体」の実現のため、事後処理にあたったのでした。

そして、騒動鎮圧以降に、大多数の過激派が捕縛、または朝鮮半島外に逃れ、急激に朝鮮の治安が回復されたことが確認できたのちの大正9年(1920年)4月28日、本土東京にて日本と韓国との縁結びになる、李王垠殿下と梨本宮方子さまとの挙式が決行されたのでした。

しかし、この結婚式当日に、ご夫妻の暗殺を計画していた朝鮮人過激派の徐相漢が、東京都内で爆弾を作成所持している容疑で捕まったのです。

「なお内鮮の状況を確認する必要ができた」という、祖父靖国に対して京城駅建設の命令を下す際に話されたものは、この、外地京城と、内地東京で起きた一連の流れを踏まえてのものでした。

背後にあるのは、ただの朝鮮独立運動というものだけなのか。受け皿となるものが何もないのに、わざわざ日本にまで入って、皇太子を殺して李朝の後継者を消そうとする目的は何か、誰が得をするのか。

大正6年(1917年)ロシアのロマノフ朝が倒れるという、天皇をいただく日本にとっては他人事ではない事態が、共産主義という新しい考えかたによって引き起こされ、その思想が日本においても勢力を増している最中でした。内地にも手引きをする者がいる可能性が出た以上、日本側の独立準備を知らない、無知な民衆の自然発生的な暴動と思われていた三・一独立運動の背後関係も含め、再度大掛かりな反日勢力の関与をにらんで、慎重に洗い直す必要が出たのです。

そのため、結婚式後の、日本国民への独立国「韓国」への移行の大まかな日程発表は、暴力的手段で独立を訴える朝鮮人テロリストによって、発表直前に急きょ中止となったのでした。

それでもなお、時期を見て韓国維新を成就させたい国によって、明治維新功労者や、韓国の独立を担保するべく代理戦争を戦った日清日露戦争戦没者の方たちの霊的守護を得るべく、その方たちが祀られた施設である靖国神社の名を持つ「豊田靖国」が、場合によっては殉職する可能性がある任務の重要性を説かれた上で、京城側の準備が再び妨害されないように、京城駅建設任務と併せて送り込まれることになったのです。