第三章 逢魔が時:始まっていた戦い

この「三・一独立運動」は、当時から京城の日本人側は、朝鮮人側の日本に対する誤解、近代化のために送り込んだ日本人の役人が朝鮮人の役人の仕事を奪っていて、自分たちは役人には登用されなくなる、文化・言葉の違いからの意思の疎通の未熟さから、朝鮮半島を奪った日本人が、自分たち朝鮮人を見下し偉ぶっていると感じられたことや、朝鮮社会の文化的背景による事大主義(小はより大きなものの庇護に入り身を守る考え)からの、日本より強国のアメリカに頼ろうとする動きから起きたものと分析していましたが、実は、もう一つ大きな疑いを持っていました。

それは、京城で突然起きた暴動の背後に、ロシアと通じた共産主義者がいるのではないかというものです。それは、この朝鮮半島の一部である咸鏡北道かんきょうほくどうがロシア領と接していて、この時期は、同じ大陸のシベリア方面に日本軍が展開していたためでした。

ロシア革命(1917年)で混乱するロシアへの牽制「シベリア出兵」と、京城での「第二帝都建設」、この二つが重なっていたために、日本側は、朝鮮半島を安定化させたあとに、満州方面への勢力拡大をもくろむ日本に対して、キリスト教宣教師を通じたアメリカの反日扇動(こちらは「朝鮮の獨立思想及運動」「京城騒擾の真相」両方に記載されています)と併せて、ロシア側の共産主義勢力が日本軍の動きを封じるために、調略を打って来たのではないかと疑っていたのです。

朝鮮半島の鉄道路線図より、京城(地図下二股に分かれる部分が京城です)から咸鏡北道(地図上右側)部分にあたります。

▲朝鮮鉄道状況(大正13年・1924年)より
(国立国会図書館ウェブサイトより)

この咸鏡北道の最北部分と、ロシア領ニコリスクウスリスキーが接していました。そのため、その方面に日本軍の増派を行う場合、悪天候に強い鉄道を使っての陸送ルートは、日本の下関から釜山まで船で、そこから汽車で京城まで上って、龍山駅から京城駅を通って咸鏡北道へと向かう形となりました。