第二章 破 絶歌

「この世の学者、利根川 進」を聖書から糺す

曰く「ネズミと人間で何が決定的に違うかといえば脳しかない。それはやっぱり、脳の機能に関係しているのが大部分でしょうね」(六七頁)。「結局、科学というのは、自然の探求なわけね。ところがネイチャーというのはロジカルじゃないんだ。特に生命現象はロジカルじゃない。

ロジカルにできていれば、理づめで考えていけばわかるはずだけど、そうじゃない。ネイチャーが今こうあるのはたまたまそうなっているだけの話なの。生物の世界というのは、何億年にもわたる偶然の積み重ね、試行錯誤の積み重ねで今こうなっているということであって、こうなった必然性なんてないわけですよ」(七七頁)。

大方の進化論者は人間とサルの比較ですが、ノーベル賞級の学者ともなれば、人間とネズミを比べるのです。その決定的な違いは臓器としての脳でしかなく、しかもそれは機能的な違い以上のものは何もないと断言したのです。

この発言の中に人間の尊厳などあろうはずもなく、人間は物質的存在にすぎない「物」に還元されてしまいました。このような結論を引き出すために研究に没頭し、ノーベル賞学者の英知をフル稼働させたのでしょうか。

「人間は無意味だ」と公言し神を否んだ文学者や哲学者は少なくありません。彼もまた分子生物学の立場から同じ発言をするつもりなのでしょうか。人間の無意味さを実証しようとする科学とは、一体何なのでしょうか。

もしも人間が無意味だというのであれば、無意味な人間がしている科学もまた無意味ではないでしょうか。生涯かけて研究し、人間の中にまだあるかもしれない無意味さの数々を調べ上げ、一体全体に対しての研究発表なのでしょう。

利根川博士の言葉からその精神を拝察すれば、さすがに彼ほどの科学万能主義という人も珍しいのかもしれません。曰く「人間が考えるということとか、エモーションなんかにしても、物質的に説明できるようになると思いますね。精神現象は神秘な生命現象だと思われているけど、わかれば神秘でも何でもなくなるわけです」(二五四頁)。これが還元論的科学万能主義者の主張です。

しかし彼は自分の仮説といえど、それが科学でないことくらいは承知しているのです。科学的仮説などというのは語義矛盾でしかないことを、十分に理解しているのです。仮説の立て方は「結局、運とセンス」であり、「ぼくもラッキーですよ」と語るからです。ではそのあたりの自己矛盾はどうなっているのでしょう。

利根川博士は生命現象のある部分を、スマートに解明してみせました。それでもなお、彼が目的とするところにはいまだ到達していないのは明白です。彼は今も「その道」の研究者でありながら、それを完成することができません。

研究の「為にする」研究ですから、当然といえば当然です。彼は「神などいるはずがない」という自身の出発点である信念を、その肥大した知識によって証明しようとしている矛盾の中にいることに、気づきません。

結局、一〇〇年に一度の学者の偉業とは、「神の存在否定」がもたらす人間存在の必然的消滅という、おぞましい「実験」でしかなかったのです。それを「背理法」によって、証明してみせたというわけです。それが彼の「信仰」だからです。

ちなみに背理法とは、ある判断の否定を「真」と仮定すれば、そこから不条理な結論「偽」が導かれる時、否定以前の原判断の方を正しいとする間接証明の論法です。誤った仮説を正しく推論すれば、必ずおかしな現実が浮上してくるということを教えてくれるのが、背理法たる所以です。

彼の名言、否、迷言「結局、ないものをいくら一生懸命さがしても、絶対ないんですよ」の「ないもの」とは、神の御前における利根川 進という彼自身の魂ではなかったでしょうか。しかし神は全人類への初めての自己紹介において、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)と宣言したのです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。