授業全体は学習指導案通りに流れたし、生徒は模範解答をくれていたし、その場での授業参観者の反応からも確かなものを得ていたので、私は自信満々で協議会に臨んだ。自評に続いた質疑応答では、やはり、とても良い授業だったとの感想を二人の方からもらった。授業内容のみならず、「詩を読む先生の声が大変素晴らしかった」と私自身に対する高い評価ももらい、少し有頂天になりかけていた。

そうしたところで、一人の民生委員の女性から、「私もいつも星野さんの詩を読んでいるけれど、星野さんの詩は本当に素晴らしい。それだから詩を読むだけでも十分。後の説明はいらなかった」と指摘されたのである。

教育長等も同席している協議会で批判されたにもかかわらず、この女性の言葉が私の中にスッと沁み入ってきて、「本当にそうですよね」という言葉を素直に発していた。

公開授業ということもあって念入りに学習指導案を立て、ビデオも準備し、当日の授業も気合いを入れて臨んでいた。その分と言って良いだろうが、発問を通して十分に理解させ、「奉仕の精神」を喚起し、ある意味植え付けたいという気負いがあったように感じられたからであろうか。用意周到に思索した学習指導案通りに進ませることに集中していたように思われるし、また、そうなったことで授業としてとても満足のいくものとなったと思えた。

そして、そうした授業に、教育関係者である教育委員と近隣の中学校の教師は高く評価してくれた。

それに対して、民生委員の女性が、「後の説明はいらなかった」と批評されたことで、私はハッと気付かされた。

この言葉によってハッと気付かされたというのは、単に授業内容として「後の説明」がいらなかったというだけでなく、「いい授業」を見せることだけに躍起になっていて、苦心して考えた学習指導案通りに進めることに私が囚われてしまっていたという点だった。私が気づかせ、私が教え、私が植え付けたい。そんな思いが少なからずあったことに気づかされたのだ。

この時、生徒3人は、模範解答をもって応えてくれているのだが、よくよく考えてみると、私がいい授業を作るのに協力してくれていたのであり、ある意味では公開授業であるがゆえに、気を遣ってくれていたということが強く感じられる。

ことに道徳教育においては、その教材の持つ力(文学や詩・芸術・自然、あるいは、人間の生そのものの力)を子どもたちがそのまま感じ取れるだけで十分というものが少なくなく、そこにおける教師の働きの難しさを実感する。