車でバンコク市内より保養地パタヤ海岸に至るバンナー・トラート路を飛ばして、約一時間半でチョンブリー県の先のバンプラ・ゴルフ場に着く。なかなかの名門コースであるが、ゴルフ場内にマンゴーの木がたくさん植えられているのには驚かされる。キャディーに聞くと、マンゴーの実は収穫して市場にも出荷しているらしい。二月初頭、バンプラ・ゴルフ場のいたるところに小さなマンゴーの実がたわわに実っている様は、見ていて気持ちがいいほどである。

しかし、オーガスタならぬバンプラにも魔物が住んでいる。アウトの五番の悲劇を汝は知りたもうや。ティー・ショットはやや打ち下ろし気味。ティーから、約二百ヤードあたりのところ大きなマンゴーの木が枝をいっぱいに広げている。

そのマンゴーの木に直接ボールを当てたゴルファーは数知れないことだろう。一打目をマンゴーの木の根元に打ってしまい、二打目は、泣く泣く横に出さざるを得なかった人も多いことだろう。そのマンゴーの木のお陰で、たった一打差でコンペの優勝を逃し、苦いビールに涙した人がいったい何人いることであろうか。

ああ、あのマンゴーの木、なかりせば。

その昔、改修前のバンプラで地元チョンブリー県の国会議員と共にゴルフをする機会があった。

民主主義の闘士としてもならしたU議員の打ったボールはバンプラの蒼空に向かって良く飛んだ。チャレンジングなコースであるバンプラが大好きだと語っていたU 議員とグリーンを回った当時にも、アウトの五番のフェアウェイのど真中にマンゴーの木があったか否かは記憶に定かでない。ただ、確かなことは、ゴルフ場が手入れを行わない限り、今年より来年が、来年よりは再来年が、あのマンゴーの木は多くのゴルファーを泣かせ続けるに違いないことだ。

青地に白で形どった、マンゴーが無数にあるJ・T(ジム・トンプソン)ブランドのネクタイを、タイからの帰国後、東京勤務で締めて通勤したことがある。課内の古参の女性職員に「変わった水玉のネクタイね」と言われてしまったが、「これは……」と言いかけて黙ってしまった。

その昔、タイ語を教えてくれた家庭教師の女性の先生が、小さい頃マンゴーの形に魅せられて、マンゴーのデッサンを何枚も何枚も書いたことがあると、おやつのマンゴーを食べながら語ってくれたことがある。確かに不思議な形だ。やや長いのもあれば丸いものもある。

「カシューナッツ」はタイ語では「メット・ヒンマパーン」、また、マンゴーの形に似ているせいであろうか、「メット・マムアン」(マンゴーのタネ)という呼び方もある。私にはビールのつまみとして食べるカシューナッツは、マンゴーではなく「勾玉まがたま」に見えてしかたがないのだが。

本省勤務の際は、よく神田の古本屋街に通った。一冊百円の雑記本の中にも偶に掘り出し物がある。ある日、古本屋をひやかしていると、セピア色に変色した『マンゴウの雨』(平野零児著、天佑書房)という小さな本が目にとまった。昭和十九年発行、定価百円、中身も見ず即購入した。

早速家に帰る地下鉄の中で目を通してみた。第二次大戦中バンコクよりラングーンに転戦した兵士を主人公として描いた小説であった。飛ばし読みで十五分でほぼ読み終えたが、本の最後のページにあった、

今日も亦、征きて帰らぬ

一機あり

マンゴウの雨しとど降り来ぬ。

の短歌が印象的であった。

そろそろマンゴー雨が、バンコクの街を濡らすことだろう。
 

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『タイの微笑み、バリの祈り―⼀昔前のバンコク、少し前のバリ― ⽂庫改訂版』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。