あなたは約束を果たしてきたのだろうか。田島孝介はどうだったのであろうか。あなたが遅れた時間、あなたが残した時間は、あなたが約束を守らなかった時間だ。けれどもあなたはその時間に救われていた。

その時間は、あなたが自分を好きになれるあなたの愛を証すものであったし、田島があなたと同じように少なくとも此処へは来ていたかも知れない可能性をまったくは否定出来ない希望を、あなたに残しているからだ。

五十二歳になったあなたは、初めて十分に状況を整えて準備をし、鏡の中にまだ微かに探すことの出来る三十年前のあなたの面影をモンドリアンカット風の芥子色のワンピースに包んで、約束の時間一杯をあなたの田島孝介と向かい合うために、三十分も早く此処へ来た。

すでにユタは消え失せ、彼も現れる筈もないと諦めているのだが、あなたはもうなりふり構わず人待ち顔に待って、「約束」を果たしたいと思っている。

売店が店じまいをすると、にわかにしんとなった。替わりに周辺の車の音と人の声が濾過されたように鮮やかになった。森の奥の生きものの悲鳴にも雄叫びにも聞こえて、あなたの胸に響く。

「おねえさん、ほれ、一粒。口に放り込み」

ボストンケースに座り込んだあなたを具合が悪いのだと思ったのだろう、いきなり目の前に飴が差し出された。酔っているらしい、薄汚れた紫色のTシャツをだぶつかせて赤銅色に日焼けした初老の男の体が揺れ、伸ばした腕も左右に揺れている。

あなたは一瞬戸惑ったが、微笑して掌を広げた。

「ありがとう」

「来ないんか、あんたの大事な人」

あなたはまた微笑して頷いた。

「そうかそうか、来ないんか。ま、そんなこともあるわさ。うん、そんなこともあるある、いっぱいある。だけどそのうちきっと来るよ。うん、きっと来る」

呂律のまわらない舌をまわして、男は鼻歌を歌うように同じ言葉を繰り返しながら去って行った。あなたはセロファン紙を剥いて飴を口に放り込んだ。

ミントの味がした。時計を見た。あなたは、約束の終電車の一本か二本、前の電車に乗るつもりでいる。

田島孝介がその残した時間には間に合って来たかも知れないという可能性を置いておくために。

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『となりの男』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。