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ユタの肖像

黄色い壁にAMOREの文字が黒光りしている下では透明硝子の向こうで若い男女が数人、眩い蛍光の明るさに漂うようにゆらゆらと動き回っている。

あなたは、たった今、クリーム色の布貼りの庇の下に剥げかかったユタの金文字を置いているダークブラウンの硝子扉を開けて出てきたかのように、AMOREの前でしばらく佇んだ。

傍らにある自販機に千円札を入れてお茶を買い、ジャラジャラと音を立てて出てきた釣銭を財布に収めると蓋を取った。喉が渇いて粘っていた。信号機の色が何度も変わる。渡ろうとしてその度に一人取り残されるあなたを、しかし誰も見咎める人はいない。

あなたは、さっきあなたの横で若者がそうしたように、星が瞬きはじめた高い闇に顔を仰向け目を見開いたまま一気にお茶を飲み干した。

駅に戻ると、あなたは再び改札口の横手の柱の根元にボストンケースを下ろす。いきなり夥しい乗降客の行き交いがあなたの目を釘付けにさせる。しかし間もなく雑踏はうっすらとまばらになる。

その規則正しい数分ごとの繰り返しに合わせて、あなたは躰を硬くし緩め、呼吸を整える。

三十年だもの。あなたは呟く。

初めての約束の年、二十年前、あなたは約束の時間に三十分遅れた。幼い子が熱を出していた。大丈夫と見極められなければ約束を破るほかないと、我が子をあやしながら即座に決めていた。

相手が覚えているかどうかも怪しい言葉だけの約束を我が子の病と天秤にかけるなどもってのほかと、躊躇ちゅうちょがなかった。

その朝、ようやく熱の下がった子を置いて、あなたは電車の中を駆けるようにして此処へ来た。そして此処にもユタにも田島の姿がないのを確かめると、それを願っていたかのように、電車に乗り東京駅へ引き返した。最終の特急電車に間に合うからだ。

一刻も早く、熱をぶり返しているかも知れない幼い娘のもとへ帰ってやらなければと、あなたは思い続けていた。それからまた十年、二回目の約束の年にはあなたの母親が死の床にあった。

母の臨終もしくは葬儀が約束の日に重なるようなことになればやはり約束を破るよりほかないと、この時もあなたは迷うことなく決断していた。

母は、あなたに贈り物をするかのように容態を持ち直し、あなたは此処に立つことが出来たが、状況を訊ねた公衆電話で急変を知らされた。

終電車の時間まで一時間あまりを残して、あなたは慌ただしくこの場を去ったのだった。