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本業が不振に陥ったため、教育事業を譲渡して社長に復帰。

さて、私が進めた教育事業部は順調に売上げを伸ばし軌道に乗りつつあった。しかし、大本の上野食品は大手メーカーの参入で市場を奪われつつあり一九八九年を境にカップみそ汁の売上げが下がってきた。

その頃、私は上野ビルディングが新たに購入した百坪の土地に五階建てのビルを建てる仕事もあり忙しく、食品事業の経営が思わしくないことは薄々知っていたが、関わる暇がなく社長代理に任せっぱなしであった。

その後も本業の売上げは月を追うごとに下がり始め、このままでは大変なことになるとやっと気づいた私は、教育事業部の柱であった英会話教室の事業部門を友人の会社に譲渡。他の部門は縮小して撤退を決め、社長交代の機会を窺っていた。

一九九一年八月、五階建てのビルが完成して社員たちがそこへ引っ越しをすることとなった。この引っ越しの機を逃さず、私は三年振りに社長に復帰した。驚いたことに、社員の顔ぶれが以前とは違い、新しい社員が入っていた。

早速、全社員を集めてミーティングを始めた。今までの代行社長と違い、強烈な経営方針とオーナーの個性に戸惑った新しい社員たちは「これからは大変だ」と思ったのか、しばらくして何人か辞めていった。社内の雰囲気は以前と違って緩んでいた。

社長に復帰するも困難を極めた食品事業の立て直し。

ここで、本業から離れて教育事業部を立ち上げたことに対する総括をしなければならない。

上野食品がカップみそ汁で大儲けをして利益が出ているうちに、食品以外の事業の柱を立てようとする計画自体は悪くないと考えていた。

しかし、結果は大きな失敗であった。