よく見ると、何のことはない。ビルの清掃員がモップの用具を持ってたまたま部屋の前を通りかかったのに鉢合わせただけだった。

妙な電話があってから一〇日近く経つ頃には、一人相撲のような戦々恐々とした生活ぶりも少しずつ影を潜めてきた。

奈良時代に自分なりに納得する形で事件を処理し、特に人に恨まれるようなことはしていないはずだという自信も取り戻していた。

仮に当時の事件関係者だったとしても、こちらに連絡をとってきたというのは恨みで何か仕返しをしようというのではなく、何か別の用向きではないだろうかと考えるようになっていた。

件の電話があってから、二週間近く経過していた。

事務所のある神戸三宮の街は、神戸ルミナリエの祭典も始まり、夕方には、三ノ宮駅へとつながる道のどこもかしこも旧居留地に向かう若い男女連れでごった返すようになっていた。

神戸ルミナリエは、平成七年の阪神・淡路大震災の発生を契機に、亡くなられた方々の鎮魂と追悼、神戸の街の復興を祈念して震災で激減した神戸への観光客を再び呼び戻そうということで、毎年開催されている。

旧居留地の通りや広場を独特の幾何学模様のイルミネーションで飾る。その様は昼間とはまったく異なる電飾の風景を現出させ、人々の目を楽しませて飽きさせない。

丹前は、朝、いつものように電車に揺られながら座席に座って新聞を拡げていた。

明石から三ノ宮まで各駅停車で三〇分。快速や新快速だと、二〇分から二五分で行ける。

相変わらず、事件の依頼もない状態。急いで事務所に着かねばならないわけでもなし、各駅停車でのんびり座っていくのが日課となっていた。

時間も午前一〇時前だと、通勤ラッシュとも無縁だ。

新聞は、一面を見て、右側の見出しにこれといったトピックがなければ、まず三面記事を開く。これは検事時代からの癖だ。この日もそうだった。三面の見出しの大きい記事を拾って読んだ。

これまでも度々目にしているが、マイナンバー通知カードが受取人不在で返送されている件数が相次いでいる。来年一月から社会保障や税などの行政手続で利用が始まるというのに間に合うのか、各自治体、郵便局の対応ぶりが問題になっていた。

これら記事に一通り目を通して、右側の比較的小さい見出しを拾っていた。

「奈良、生駒山中に男女の変死体。死後二日」

これに目が止まった。

件の不審電話でしばらく奈良地検時代とつながったせいもあった。

丹前は、その見出しの記事を読み進むうち、胸の鼓動が高鳴っていくのを覚えた。

「高山敦史、あいつだ」

一〇年ほど前、殺人罪で起訴した男だ。

記事によれば、この高山は女性と車に乗った状態でマフラーの排気ガスを車内に引き込み、一酸化炭素中毒で死んでいるのが発見されたという。女性の方は、首を絞められたことによる窒息死。

高山は、平成一六年一二月、元勤務先の会社社長を鉄製の鈍器で殴って殺害し、懲役一〇年の刑に処せられた。

その高山は今年八月に出所したばかりだという。

女性の身元も判明していた。

小山麗子。三五歳で四一歳になっている高山と六つ違いだ。奈良県平群市のアパートに住むOL。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『ヤメ検・丹前健の事件録 ―語られなかった「真相」の行方―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。